「社蓄」という言葉まで登場してるのに、お金は労働の対価としてもらうのが当たり前、と考える人が多いのは、「お金は汗水たらして稼ぐもの」という一面的な見方の刷り込みがあるのかもしれません。
まず1つ目に、ピケティが『21世紀の資本』で明らかにしたように*1、「r > g」という公式の存在があります。r は利子率、平たくいうとお金がどれくらいの速さで増えていくかを示します。g は経済成長率です。経済活動から得られた利益の一部が給料として分配されるわけですから、gが成長すれば、給料の総額も増えることになります。
ところが、「r > g」という公式は、経済成長率よりも利子率のほうが歴史的に大きいということを示しています。これは、経済成長によって給料が上がっていく速さより、金持ちの富が増加していく速さのほうが早いということです。資本家対労働者という対比でみると、貧富の差はますます拡大するということです。
翻って「お金は汗水流して稼ぐもの」という言葉は、労働者にとっては当たり前、資本家にとっては「何いってんの?」というものになります。
2つ目に、「汗水たらして」する労働はいわゆる肉体労働で、その多くは既に機械に代替されてしまっているということです。畑仕事でも建設仕事でもものづくりでも、本当に汗を流すような仕事は機械でやるのが当たり前になってきています。もちろん、人間でないとできない部分もまだ確かに残っていますが、テクノロジーの進化はそれらをも機械に置き換えるように進んでいます。
もはや「汗水たらして」する労働は、趣味としては成り立っても、基本的には機械が行う方向に向かっています。
レジ打ちや外回りの営業、伝票作業なども、広い意味では「汗水たらす」労働でしょう。しかし残念ながらこちらもネットを介したアルゴリズムやAIに駆逐される方向にあります。
カメラで商品を読み取って、無人で決済を行う店舗についてのニュースが相次いでいます。駅の切符切りと同じように、店舗のレジ打ちは急速になくなっていくでしょう。伝票作業も風前の灯火です。業務フローがデジタル化されれば、デジタルのまま処理するのが当たり前です。そこに人間が何かを入力したりチェックする必要はありません。営業活動は、対人コミュニケーションの要素が強いので、まだ一部では残るでしょう。しかし、広告出稿や証券取引において、オンラインでの申し込みが当たり前になってきたように、多くの取引で営業担当の「人間」は不要になっていく可能性が高いと思われます。
こうした労働もAIなどに代替されたときに、残る仕事は、極めて対人コミュニケーションが重要なものか、人間には易しくとも機械には難しいものか、仕組み自体を構想する企画職か、システムを構築するエンジニアか、といったものになります。これらの多くは汗水たらすというより、頭をひねる仕事です。
ただしそのときも汗水たらす仕事は確かに残るでしょう。それは、あまりに低コストなので機械やAIを導入するよりも、人間を雇ったほうが安くすむ仕事です。多くの仕事でAI化が進んだ結果、人が余ってしまったら、システム導入よりも人を雇って単純労働させたほうが安くなる領域が出てくるでしょう。もちろん、人口減少というトレンドもあるので、うまくバランスするのかもしれません。
いずれにせよ、汗水たらす仕事は「機械でやるにはコストがかかりすぎる」という、尊厳もへったくれもないものになる可能性があります。それを推奨するのは、間違っているだろう、と思うわけです。
資本家や経営者にとっては、「お金は汗水たらして稼ぐもの」と訴えたほうが労働者が頑張って働くし、身体と時間を使わなければお金ももらえないと感じてくれたが方がありがたいものです。だからこんな言葉が出回ったのかもしれません。一方で、資本家は汗水たらさずにお金をもらっているんですけどね。
↓労働礼賛不思議についてはこちらでも書きました。
↓AIが発達した社会で、なぜベーシックインカムが必要なのかという考察
*1:ちなみにピケティの言葉はけっこう有名ですが、13万部以上も日本で売れたという『21世紀の資本』はいったいどれくらいの人が読破したのでしょうか。実はぼくも読んだのは半分くらい。脚注を除いても600ページあるこの本は、本当に大部です。「で、ちゃんと読んだ?」と友人と話すと、「あれは全部読む必要ないんだよ」と逆に諭される始末。でもこうやって引用したり参照するなら一読くらいはしておきたいと思っています。