FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

コロナ危機をきっかけに世界は監視社会に向かうのか

株価だけでなく経済自体がコロナ危機と呼べるような状況です。このような極限状況において、実は人の政治的な考え方が如実に現れるように思っています。1つ、分かりやすいのは、政府による強権的な対応を良しとするかどうか、という点です。

強権発動でコロナウイルスを封じ込めた(ように見える)中国

果たして数字が正確なのかどうかはともかく、中国はいまのところ新型コロナウイルスの感染拡大を抑え込んでいるように見えます。イタリアやスペイン、米国で爆発的に感染が拡大している中、中国の公開されている数字では新規感染者は収束に向かっています。

f:id:kuzyo:20200322150308p:plain

これは、中国政府の強権によって抑え込みに成功したというのは事実なのでしょう。同じように、日本でも政府が早くから強権を発動すれば抑え込めたのではないか? という声を聞くことがあります。

 

各種記者会見でも「○○を要請」「自粛してください」など、命令はできず、お願いするばかり。従わない人は従わないわけで、歯がゆく思っている人もいるようです。

 

でもこれは、政府が国民の自由をどこまで制限できるか、していいかについて、法で定めているからなんですね。また、「命令」してしまえば命令によって生じた損失は国が保障するのが筋になりますが、「要請」「自粛」に対して忖度した場合は、損失も自己責任になります。そんなところもあるでしょう。

強権容認論に警鐘を鳴らすユヴァル・ノア・ハラリ

こんな、「非常事態なんだから政府が強権発動してもいいんじゃないか」という意見に対し、警鐘を鳴らすのがユヴァル・ノア・ハラリです。ベストセラー『サピエンス全史』の著者、世界トップクラスの見識人です。

 ユヴァルは、クーリエ・ジャポンへの寄稿で、次のように書いています。

この非常時に我々は、とりわけ重要な2つの選択肢に直面する。

第一に、全体主義的な監視社会を選ぶのか、それとも個々の市民のエンパワメントを選ぶのか。

第二に国家主義者として世界から孤立するのか、それともグローバルな連帯をとるのか。

courrier.jp

 ここでいう全体主義的な監視社会とは、政府が市民を監視し、規則を破った者には罰を与えるという社会です。そして現在、監視カメラや各種センサー、そしてモバイル通信機器によって、市民の監視は技術的に可能になっています。さらに集めた膨大なデータを瞬時に解析する技術も、AIという形で実用化されてきています。

 

ユヴァルも書いているように、中国はその最先端です。友人が、中国に出張にいったときカバンをどこかに置き忘れて交番に駆け込んだときの話をしていました。なんとパスポートを提示すると、その写真を読み込み、街中に設置された監視カメラから彼の行動を経路を表示。カメラの写真を見ながら「ここまではカバンを持っていますね。あ、ここから持っていません。ここに置き忘れたのでは?」。

 

顔認証とカメラが組み合わさるだけで、これだけのことができてしまいます。便利なテクノロジーといえば便利です。ただし、悪用しようとしたら、政府が国民を管理しようとしたら、どこまででも可能な恐ろしいテクノロジーでもあります。

戦争も疫病も一致団結が必要だが…

いうまでもなく、今回すでに人類のコロナウイルスの戦争という様相を帯びてきています。国対国の戦争のように、こうした緊急時には国民の行動を制限する必要もあるでしょう。

 

しかし、ユヴァルが言うように、それを政府が強権で実現するのではなく、適切な情報公開と合わせて、国民の自発的な協力によって実現するべきだというのが、人類が築いてきた民主主義社会の目指す姿なのだと思います。

 

もし国民にはそんな判断力がなく、放っておけば好き勝手なことをするので、倫理的で頭脳明晰な政府がみんなの行動を決めてあげなければいけないと考えるのであれば、それは民主主義の否定であり、パターナリズムの極地だと思うのです。

 

翻って日本はというと、こんな状況です。

これが、日本政府が考える国民へのコミュニケーションなのだ。つまり、対策を考えている姿を見せることが大事。ぶっちゃけて言えば「やってる感」が大事。

ロックダウンのNZで東京都知事の会見をみてひっくり返りそうになったので長いけど読んでほしい。|ZKASH|note

ロジカルに検討し、適切な情報公開をするというよりも、回りくどい表現で、危機を煽るようなコミュニケーションしかできていません。少なくとも会見をライブで見た限り、そう感じました。

 

この「やってる感」「みんな頑張っている」という感じは、日本人のメンタリティに深く根ざしているんでしょう。そういえば、ダイヤモンド・プリンセス号の船内の状況に警鐘を鳴らした岩田医師に対して、厚労省の高山医師が反論した文章にも、その感じがにじみ出ていました。

interests-me-the-most.com

具体的で正確な状況やプランは教えないけど、ヤバいからみんなよろしくやってね。こっちもみんな頑張ってるんだよ――。だいたいいつもこんな感じです。ただ、これは日本のリーダーがダメというよりも、こういうコミュニケーションを取る人を日本人は好きで、ロジカルに明確に物事を言う人は好まれないという理由があるのだとも思います。言ってることはよくわからないけど、頑張ってるよね。そういう人が評価されるのでしょう。

政府は一度手に入れた権力は手放さない

コロナ危機は、医療機関はじめ各所の尽力と、多大な経済的犠牲を払った国民の協力によっていずれ克服されるでしょう。それでも、こうした危機に乗じて得た国民を制約する権力は、危機が去ったからといってなくされはしません。

私の故国イスラエルは1948年の独立戦争(第1次中東戦争)の最中に非常事態を宣言、暫定措置を次々と打ち出して正当化した。それは新聞の検閲、土地の接収から、プディング作りの特別規制(私は大まじめに言っている)まで多岐にわたった。

ところが、独立戦争にはとっくの昔に勝利したというのに、イスラエル政府は非常事態終了をいまだ宣言せず、1948年に施行された「暫定」措置の多くも廃止できずにいる(ありがたいことに、1948年非常時プディング規制令は2011年に撤廃された)。

ユヴァル・ノア・ハラリ「非常事態が“日常”になったとき、人類は何を失うのか」 | 『サピエンス全史』著者が「コロナ危機後の世界」を予測 | クーリエ・ジャポン

ぼくはリバタリアン的な人間なので、自由を最も大事なものだと考えています。政府が行動に制約を設けることも、そうした中で人々の行動が一方行に流れるような空気が醸成されるのも嫌いです。特に日本では、政府が具体的に強権を発動するというよりも、なんとなく国民の間に「こうするべき」という空気が形作られ、それに従わなかったり反論する人は「非国民」的な扱いを受ける国のように感じています。

 

まさに空気による支配です。日本が太平洋戦争に突き進んだときも、そんな空気だったんじゃないかと想像したりします。

 

「国民はバカだからこっちが言ったとおりに動いてくれればいい」。こんな国民に代わって政府がすべて判断して決めてあげることをパターナリズムといいます。未成年や病気で正常な判断力がない人は仕方ありませんが、大人は健全な判断力を持っているというのが民主主義の根幹です。

 

人間の英知と倫理を信じて、適切な情報を提供すれば人は合理的に判断できる。そんな世界になってくれることを願っています。

 

コロナは社会のムードを変えつつあります。コロナ後の社会について考察してみました。 

www.kuzyofire.com

 

www.kuzyofire.com