長くの間、人間にとって人生とは働くことであり、身体が労働に耐えられなくなって初めて老後がやってくるのが当たり前でした。これは、労働を礼賛する儒教的な考え方でもあり、日本国憲法が「労働の義務」を掲げているように、社会から求められてきたことでした。
ところが、総体的にいえば、「働かなくてはいけない」という倫理観は崩れようとしているのかもしれません。
人が働く必要がなくなる時代とケインズは言った
ケインズは大恐慌さなかの1930年に、「孫たちの経済的可能性」という論文を書いています。ここでは、経済成長がこのまま続けば人間の経済問題は基本的に解決してしまい、仕事というものに対する価値観が変わるだろうと記されています。
私が導く結論は、大きな戦争や人口の極度の増加がないとすれば、経済問題は百年以内に解決するか、少なくとも解決が視野に入ってくる、というものだ。これはつまり、経済問題は——将来を見通せば——人類の永遠の問題ではないということだ。
現在は2021年。ケインズの「100年以内」という期限にあと9年で到達します。今のところ、経済問題はぜんぜん解決されていないし、それどころか国家の負債は増大し、格差問題が課題になっています。
それでも、この変化が加速する現代においては、9年後というのは遠い未来であり、全ての物事がひっくり返ってもおかしくないとも思います。何しろ、9年経てば、8%複利で資産は2倍になってしまうのですから。
働く時間はどんどん減っている
働かなくてもいい時代は、突然やってくるわけではないでしょう。ただし、一つの観点として、人々の労働時間はどんどん減少しています。日本など、1985年と比較して約10%も減少しました。週休二日制が定着し、残業時間の削減も進み、有休消化の徹底などもこの数年で進みました。
日本のGDPは必ずしもガンガン上昇しているわけではありませんが、一方で、豊かな生活のための道具が、GDPにカウントされないネットサービスなどで大量に提供されるようになってきています。いまや、お金を使わなくても、かなり豊かな生活が送れるようになってきていることも事実なわけです。
働かないことへの倫理的問題
こうした背景を受けて、YOLO(You only live Once)ムーブメントやFIRE(Financial Independence, Retire Early)ムーブメントなど、労働を人生の主軸としない考え方が、米国はもちろん、日本でも増加してきています。
そしてこうした「働かない」ことに対する倫理的な葛藤が、人によっては問題になっているわけですが、これもケインズは見通していました。
経済問題、生存のための闘争は、これまでは人類にとって常に第一の、最も火急の問題だったからだ。人類に限らず、最も原始的な生命形態の開始以来、生物界すべてにこれは当てはまる。
だから私たちは明示的に、自然によって——そのあらゆる衝動と最も深い本能を通じて——経済問題を解決するという目的のために進化させられてきた。経済問題が解決したら、人類はその伝統的な問題を奪われてしまう。
人間は生物として、生きるためには働かなくてはいけないとすり込まれており、いざ「働かなくていい」と言われてもすんなり受け入れられないし、社会的にもそれを是とはされないのではないかというのです。
生きるために働かなくていいのであれば、趣味のために時間を使えばいいのではないか? そんな風に思う人も多いと思います。しかし一方で、仕事の代わりに人生を捧げられるような趣味を持っている人は、数えるほどしかいないのも事実なわけです。
でも余暇と過多の時代をゾッとせずに待望できる国や人々は、たぶん一つもないと思う。というのも私たちはあまりに長きにわたり、頑張るべきで楽しむべきではないと訓練されてきてしまったからだ。特別な才能もない一般人にとって、没頭できるものを見つけるというのはおっかない問題となる。
富の蓄積が無意味になる
誰もが働く必要がなくなる時代に向けて、大きなブレイクスルーは、やはりAIの発展でしょう。機械化が肉体労働を代替したように、AIの発展は頭脳労働を代替します。しかも、ちまたでよく言われるような「創造的な仕事はAIにはできない」というのはまやかしで、AIの進歩は創造性についても人間を凌ぐようになりつつあります。
加速度的に進化する半導体と、加速度的に発達するAIのポテンシャルは、ぼくらが考えるよりも速いと考える方がいいでしょう。早晩、現在頭脳労働と見られているものの多くはAIに代替されます。
当然、この変化の間には、いくつかの問題が発生します。多くの失業者が発生し、AIが回す社会にとって必要とされる人材は一握りとなるでしょう。貧富の差が拡大し、政府は富の再配分を進めるでしょう。BI(ベーシックインカム)が実現するかは分かりませんが、それに近い政策が実施されることになるのでしょう。
しかし行き着く先にあるのは、誰も働く必要のない世界です。そのとき、「富」という概念自体も変質するでしょう。お金や財産をもっていようといまいと、やりたいことは何でもできるという時代になってくるからです。ケインズはこう書きます。
富の蓄積がもはやあまり社会的重要性を持たなくなると、道徳律にも大きな変化が生じる。(略)
所有物としての金銭に対する愛——人生の享受と現実の手段としての金銭を愛するのとは別だ——の化けの皮は剥がれ、いささか嫌悪すべき病的状態であり、犯罪もどき、精神病もどきの傾向として、身震いしつつ精神病の専門家に引き渡すようなものだと認識されることになる。
本当に働く必要がなくなる時代はやってくるのか
果たしてケインズのこの予想は、実際のものになるのでしょうか。正直、世間ではケインズの経済理論は浸透していますが、この予想についてはある意味世迷い言と捉えられているように感じています。
しかし、AIの発展、マジメに議論され始めたBI、格差の拡大、世界的な課税傾向の高まりなどを考えると、遠くない将来、働くということが限定された人たちの特権的な活動になり、多くの人は働かずとも生活を過ごせる時代というのはやってくるように思います。
いわば誰でも強制的にFIREとなるわけです。このときに仕事を懐かしむか、それとも仕事以外に没頭できるものを持っているか。そのあたりが人生の幸福を左右するようになるのかもしれません。