FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

消費者金融で借りすぎて破綻する人は自己責任?

先日読んだ書籍『サラ金の歴史』を読みながら、ずーっと考えていたのは、「消費者金融で借りすぎて破綻してしまう人は、自己責任なのか?」ということでした。

借りすぎ破綻の増大が社会問題化して、法整備された

先の記事でも書いたように、1980年あたりまでは消費者金融の金利は普通に100%を超えていました。それが徐々に引き下げられた理由は、多重債務者の増加と、彼らに対する取り立てがもたらす生活破綻が社会問題化したからです。

 

「ないんです。返せません」と訴える借り主に対し、サラ金側は「そうは言ってもね、借りた金は返すものだよ」と諭します。この時点では、どちらかというとサラ金側に理があるように、ぼくには感じられます。

 

返せないのに借りてしまい、返せません!というのは、いくら泣いても頭を下げても、そりゃ自己責任じゃない? と思いたくなるものです。しかし実際は、「返せない人に貸したサラ金側が悪い」という論理で法律が作られていったようです。

 

ドライなビジネスの論理だと、返せない人に貸すと貸倒れが増えて、サラ金側の損失が増えていきます。実際、1975年〜79年のプロミスでは、危険水準と言われる3%以上の貸倒金比率に達していたといいます。

 

それでもサラ金は貸し続けたのは、熾烈な競争を生き残るため利益率を悪化させても規模を拡大させるためでした。規模を拡大すれば、貸倒金が増加しても確率でそれを制御できるようになります。当時のサラ金は、意図的に、返せない人にも貸し付けたのです。

 

しかしそれは借り手の破綻を伴うものでした。

サラ金にとっていかに経営上問題はなくても、貸倒れを起こした債務者一人ひとりにとっては、人生を狂わされかねない深刻な事態である。各社が争って規模を拡大し、貸倒れのい絶対額が大きくなった分だけ、返済に苦しむ顧客の数は増大した。

 

ここで言っているのは、「返せるアテがないのに借りた人が悪い」のではなく、「返せない可能性が高い人にも貸したサラ金が悪い」という論理です。つまり、返せるかどうかは本人には判断できず、外部の情報が少ないはずのサラ金のほうが、正しく判断できるだろうという話です。

金利を法で規制すべきか

お金を借りるというのは、極めてポピュラーな契約です。そこでは、借り手と貸し手が合意している限り、どんな金利であっても構わないと考えるのが大人の発想でしょう。しかし、多くの国では「暴利的」な利息を法律で規制しています。

 

  • ドイツ 法律にはないが、判例として存在。市場金利の2倍or市場金利+12%
  • フランス 暴利的利率は法律で禁止 平均利率の3分の4以上が暴利
  • 米国 州法で定めている。ニューヨーク州の場合25%
  • 英国 法律なし。裁判所が暴利的と判断したら契約を変更できる
  • 韓国 貸付業法で規制。年利49%
  • 金融庁平成22年調査

なぜ双方合意の金利ではダメで、一定以上の場合「暴利」として法律で禁止しなくてはいけないのでしょうか。

判断できない人がいるという前提

ここからは僕の想像です。契約自由の原則といいながら、世の中には自分の意思で契約をできない人がいます。

 

最もわかりやすいのは子供です。今年、民法上の成人が18歳に引き下げられ、18歳から契約が結べるようになりましたが、これはつまり18歳までは自分で契約を結べないのです。

 

民法的には、未成年のような自分で契約を結べない人を「制限行為能力者」といいます。判断能力に問題があったり、経験が乏しかったりするため、契約や法律行為上の約束を守らせることが難しい人のことをいいます。制限行為能力者には未成年以外にも、次のような人があたります。

  • 未成年者……18歳未満
  • 成年被後見人……判断能力が常に全くない人
  • 被保佐人……判断能力が著しく不十分な人
  • 被補助人……判断能力が不十分な人

成年被後見人の例としては重度の認知症患者など。被保佐人は精神障害などで、補助人になるに従って軽くなります。確かに、認知症患者に対して双方合意の契約を結ぶというのは成り立たないですね。代理人が立つ必要があるのは納得です。

 

では高金利の場合はどうでしょうか。思うに、正常な判断力を持っている人ならば、年利100%の借入なんて使わないものです。いや、20%だって使いませんね。しかも、返せるアテがないのに借り入れるなんて、正気の沙汰ではありません。リボ払いにしてもともすれば、永遠と利息だけを払い続けることにもなりかねません。

 

一方で、それらを理解した上で、高金利でいいので瞬間必要になる場合があるのも事実です。例えば、明日1000万の入金が確実にあるが、本日900万の支払いが必要。こんなときは、年利100%だって900万円を1日だけ借りるのが合理的です。

 

選択できる方法の中で、それが最も合理的かどうか。返済のアテはついているのか。そうしたことを総合的に勘案したうえでは、上限金利なんて法律で縛らずに、暴利的な金利であったとしても選択肢が多いほうがありがたいともいえます。

 

つまり、上限金利の存在は、そのヤバさを自分で判断できない人を守るため、ということなんじゃないかと思うわけです。つまり、成人の中にも「自己責任」を問える人と問えない人が、実際には存在しているということです。

判断力のグラデーション

実際、判断力にはグラデーションがあります。ベストな資金調達の方法を考えることを仕事にしているファイナンスの専門家がいる一方で、その反対側の先には制限行為能力者がいます。そして、その間には、詳しい人から普通の人、あまり理解が足りていない人というグラデーションがあるわけです。

 

ファイナンスの専門家や詳しい人にとっては、上限金利以上の金利でも使いようという感じでしょう。一方で、あまり理解が足りていない人については、金利というよりも借金という行為自体が危険な可能性もあります。

 

ぼくはリバタリアンなので、人の合理性や判断力を信じています。そのため、消費者保護の名のもとに、契約の自由を制限するような法律を作ることには基本的に反対です。一方で、理解が足りておらず、借金をすることが生活の破綻につながってしまう人がいることも否定はできません。

 

では、人を区分して、詳しい人にはどんな条件のファイナンスでも可とし、普通の人には金利だけ上限を課し、理解が足りていない人には借金自体を禁止するという世界がいいのでしょうか? いや、これはこれで人を能力に応じて差別化する社会のようで、気持ち悪い。さらにどうやって区分を分けるのかという実務的な問題もあります。

 

現在の制限行為能力者だって、完璧な線引の方法がないので、医師が判断したり裁判所が判断したり、単に年齢で判断力のあるなしを区切っているわけです。グラデーションがあるのは事実だとしても、外形的にそれぞれを分けるのは難しいのです。だから、下の方に合わせて、一律に上限金利を設けたとも考えられます。

金利だけは別なのか

またはさまざまなパターナリズムの中でも、金利制限だけは特別という考え方もあるでしょう。ベニスの商人を例に出すまでもなく、はるか昔から金貸しは暴利を貪ることで嫌われ、たびたび人々の生活を蝕んできました。

 

イスラム教で利子が禁止されているのは、実は人間の生活や幸福の根幹に関わる英断なのかもしれないと思うときもあります。

 

金利に関する制約というのは、カルト宗教に対する制約にも似て、自由との兼ね合いがけっこう難しいものだな……と考えていて思うものでした。

 

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