前回、感情に動かされるよりもどれだけ効果があるのかで寄付先を判断したいという、根本的な考え方を書きました。今回は、ではどんな効果を求めてそのために何を行うかについて、考えていることをまとめておきます。
功利主義=最大多数の幸福
まず寄付の結果、どんな効果を求めるかといえば、最大多数の幸福です。もちろん、自分自身の幸福は追求するし、自分の家族、友人の幸福もたいへん大事ですが、それらの効果が低減する中で、最大多数の幸福をいかに向上させるかが目的になります。
EA=効果的利他主義では多くの場合、どれだけ多くの命を救えるかを最大多数の幸福と定義しているようです。そのため、現在生きている人々の命を救ったり、経済環境や学習環境を向上させたりするための取り組みへフォーカスしているように見えます。
※チャリティーを比較する – どれほど差があるのか? — EA Forum
しかし、功利主義的に考えると、現在苦しんでいる人を救うことと将来の人の苦しみを取り除くことは同じ価値を持つのではないでしょうか。対処療法的に問題に対処するよりも、根本原因を取り除くほうが意味があると思うからです。よく「魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教えるべきだ」と言うのに似ています。
であれば未来の人類の厚生に役立つ、長期的な対応を行うべきではないでしょうか。それでも、多くの場合、長期主義ではなく目の前の困っている人を助けたいという心情に駆られるようです。
実際、EAの著名人である80,000Hours運営者であるMichelle_Hutchinson氏は、「いま生きている人を助けたいという気持ちが強い」「長期主義の主張に感情面で魅力を感じられない」と心情を吐露しています。
私にとって、いま生きている人を助けることを後回しにして、未来の人を助けようとすることは、自分の国の人を助けることを後回しにして、地球の裏側の人を助けようとすること以上に難しいことです。それは、「現代の私たちが未来を良くするために行動しなかったとしても、未来を良くしてくれる人が今後やってくるだろう」という意識にも由来しています。それとは対照的に、「現代の私たちが今日の世界の貧困層を救う行動を起こさなくても、後から来た人たちが援助を申し出て、私たちの代わりに助けてくれる」ということはありません。今年、私たちが救えなかった命は、必ず失われ、惜しまれることになるのです。
隕石衝突による人類滅亡を回避するためにいくら使うべきか
それでも、一部のEA主義者は、長期主義に取り組んでいます。例えば「隕石衝突による人類滅亡を回避する」とか「進歩したAIによる大災害」とかです。
例えば隕石衝突による人類滅亡を防ぐために、どれだけの資金を投じる価値があるのでしょうか。地球上の生命を滅ぼすような衝突が10万年に1度起こるとして、今後1世紀の間にそれが起きる確率は、1000分の1です。
仮に、この衝突を防ぐテクノロジー(軌道を変える爆弾とかロケットとか)を開発するのに1000億ドルかかるとしましょう。その技術の使用可能期限が100年だとして、それを使う確率は1000分の1です。1000億ドルの1000倍、つまり100兆ドルの価値がこれにはあるのでしょうか?
まず一人の命の推定価値を計算しましょう。
アメリカの環境保護庁や運輸省といった政府機関は、一人の死を防ぐための妥当なコストを決めるため、一人の命の推定価値を計算しています。現在の推定価値は600万ドルから910万ドルとされています。
2050年に隕石衝突が起きるとしてその頃には世界の人口は100億人に達しています。これら命の全滅を100兆ドルで防げるなら逆算すると、1人の命の価値はわずか1万ドルでしかありません。
さらに隕石の衝突確率をNASAのいう1000分の1ではなく10万分の1だとしても(つまり1000万年に1回衝突が起きる確率)、一人の命の価値は100万ドルにすぎないのです。
さらにこうした衝突によって失われる命は100億人だけではありません。地球上の人類以外の種と、これから生まれる未来の命も失われるのです。
このように、人類全滅の損失はあまりに大きく、そのために資金を回すのはEA的には価値のあることです。EA主義者がAIの危険性に警鐘を鳴らすのは、こういう背景があるのです。
長期的に最も投資効率の大きなものは科学技術である
より効果的に命を救い、多くの人を幸福にするために、長期的にはどんなことが重要でしょうか。ここについては僕には確信があります。それは科学技術だということです。
人類の幸福の測り方はいろいろありますが、その一つは経済環境の向上でそれはGDPで測られます。これをe/acc的にいうと、GDPの増加は人類の幸福度を向上させ、GDPを増やすのは人口増加、技術革新(TFP)、資本投下しかありません。
あ、e/accというのは「効果的加速主義」のことで、人類が直面する最も差し迫った課題の究極的な解決策として、特に人工知能をはじめとする技術の急速かつ無制限な発展を提唱しています。
そして技術革新を実現するのは、自由競争市場(自由)と教育がベースにあります。教育は科学や技術の根本であり、そしてそれが技術として花開くには自由競争市場が不可欠なのです。
人類全体の幸福←世界全体のGDP向上←教育と自由 というフローに異論を持つ人はあまりいなそうですが、実はここには十分な費用が投じられているとはいえません。これは資本主義の弱点でもあると思っています。
教育は、技術革新のベースになりますが、それ自体は収益を産むものではありません。そのため、企業が各人の教育自体に投資するというのはあまり考えにくい。ではそこに投資するのはだれかというと、普通は親が子の教育に投資したり、または奨学金として自分で自分に投資するわけです。
しかしこれだと、どれだけ教育を受けられるかは親次第になってしまいますし、返済型の奨学金であれば後で本人が返済しなくてはなりません。教育は社会的に非常に重要なのに、必要な人に必要な教育が届いてはいないのです。
政府が機能していない教育領域
このように市場が解決できない領域は、本来は政府の役割が期待されるところです。ところが、日本においてはOECD各国に比べても教育費の公的負担が低く、私的負担に頼っています。これは教育格差拡大、ひいては格差の固定にもつながる要因だと思います。
ただ人類全体を駆動するという意味での教育は、教育の底上げだけでなく、頂点の才能を活かすことが重要ではないかと思います。大学や大学院の中でもトップクラスのところに潤沢な予算をつけ、人類社会を革新するような技術を生み出し、そうした人材を排出できるようにすべきです。
ところが日本において最も恵まれている教育機関の一つだと思われる東京大学においても、交付金は減少し続けています。
東大の授業料値上げの発表が先日あり、たいへん議論になりました。値上げというのは、要するに教育に対する公的負担を減らし、私的負担を増やすということです。明治政府は教育こそが国の長期的な強さの源だと認識し、教育に力を入れたということですが、今の日本は真逆ですね。
寄付で教育を支援する
というわけで、市場経済を信奉するぼくですが、教育については(手法はともかく)そのコストを親に依存するのではなく、未来の人材の能力開発を支援することが重要だと考えています。そしてそのために資金を投じたい。
そしてより投資としての資金を得にくい、基礎研究領域に重点をおきたいと思っています。どのように価値が流れるかというと、フローとしては、次のように考えています。
- 寄附→基礎教育→技術革新→GDP増加→人類の幸福度アップ
そのような趣旨で、次のようなところへの寄付を考えています。
- 奨学金システム
- ハイレベルな大学
- 基礎研究を行う研究施設
- 広く基礎科学を啓蒙する施設
- 家庭問題で教育に課題のある子どもの支援