FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で自由主義者、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

「働かざる者食うべからず」ーー働かないのは富裕層か貧困層か

「働かざる者食うべからず」。昨今社会保障費の増大が政治論争にもなっていますが、社会保障についていくつかの書籍を読んでいたら、この言葉がしばしば出てきます。これは、「働こうとしない怠惰な人間は食べることを許されない。食べるためにはまじめに働かなければならないということ。」(Wikipedia)を指すわけですが、実はその意味するところは世界各国で違っています。

 

そして日本においては、働けない弱者を避難し、生活保護などの社会保障を受けることに対するスティグマの倫理的背景となっているようです。どういうことか、考えてみました。

勤労の義務が存在するのは、日本、北朝鮮、そして旧ソ連だけ

以前、「憲法に勤労の義務が存在するのは、日本、北朝鮮、そして旧ソ連だけ」だという記事を書きました。このときは、なんか社会主義国とか全体主義国の倫理観なのかな? くらいのニュアンスで捉えていたのですが、下記の2冊を読んでいくなかで、なぜ日本において勤労の義務が憲法に含まれるようになったのか、いろいろな経緯が書かれえており、改めてこれについて考えてみようと思った次第です。

まず「働かざる者食うべからず」という言葉や概念自体は、世界に広く存在するもののようです。Wikipediaによれば、新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節があるそうで、これが世に広まった原点のようです。またソ連のレーニンも論文の中で「『働かざるものは食うべからず』――これが社会主義の実践的戒律である」と述べたそうです。

 

ただし、「ここで書かれている『働こうとしない者』とは、『働けるのに働こうとしない者』であり、病気や障害、あるいは非自発的失業により『働きたくても働けない人』のことではないとされている」ことがポイントです。つまり働かなくても食べていける資本家を戒め制約するものであり、病気や障害、望まない失業によって働きたくても働けない人に向けた言葉ではありませんでした。

 

聖書もソ連も、不労所得者に対して厳しい目を向けるための言葉だったわけです。ところが、日本における「働かざる者食うべからず」は違う意味を持ちます。『いまこそ税と社会保障の話をしよう!』の筆者である井手氏によると、一般民衆や労働者、そして弱者の貧困層の労働を念頭においた言葉だったというのです。

 

なお、勤労の義務規定が挿入された経緯について、社会保障のどこが問題か ――「勤労の義務」では、当時の国会議事録を当たって解説しています。簡単に流れをいうと、GHQが用意した憲法草案に対し、衆議院帝国憲法改正小委員会において議論が行われ、そこで「勤労の義務」規定が追加されました。

 

その時の議論では、社会主義政党から自由主義政党まで全党が勤労の義務規定の挿入に賛同したのだそうです。

日本社会党の特色が現れていると評価できなくもない。しかしより重要なのは、日本自由党を含む他党の委員もすべて勤労の義務規定の挿入に賛同していることである。

社会保障のどこが問題か ――「勤労の義務」という呪縛 (ちくま新書)

敗戦後の日本がこれから復興していくためには、全国民が懸命に働き、「勤労国家」として再生していくことが必要だ、との共通認識があったようだと著者は解釈していますが、もしかしたらもっと深い日本人のDNAに組み込まれている倫理観なのかもしれません。

働かない貧困層は社会的に許されない

資本家に働け!というのではなく、貧困者に働け!というのが、日本における「働かざる者食うべからず」という言葉。これは、実は社会保障とか福祉の考え方にも濃厚に反映されています。

 

象徴的なのが、生活保護に対する社会の厳しい目でしょう。生活保護の不正受給に対する批判はたいへん厳しく、これは北欧における生活保護者に対する視線とは真逆です。

 

北欧では生活保護の人が乗馬とかを楽しむのを、働いている人たちが温かい目でみるんだそうです。これは別に北欧の人が心優しいということではなく、「あの人たちは働くという人生の楽しみを得られていないんだから、せめて乗馬くらいさせてあげないと可愛そう」という哀れみなんだとか。

 

日本はしばしば「いやいや働いている人が世界一多い」「会社が嫌いな人が世界一多い」なんていわれますが、働くことを楽しいと思っている人は極めて少なくて、働くことは苦行だという認識が人口に膾炙しているから。つまり「働かざる者食うべからず」だから、嫌でも働くのが美徳となってしまっているわけです。

 

というわけで、日本で生活保護を受けるというのは「あいつら働きもしないで税金で飯を食って、とんでもない奴だ」となりがちです。そりゃそうです。「オレは働きたくないのに仕方なく頑張って働いている。それに引き換えあいつらは……」という思いが背景にあるのですから。

 

その結果、日本では、

  • 日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
  • 日本国憲法第27条第1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」

の2つが対立した結果、「勤労の義務を果たしていない人は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利も保証されない」という解釈がされています。これは世間一般ではなく、憲法学者の間でもそうなんだそうです。

つまり勤労の義務というのは、国のためにやるのではないけれども、勤労の義務を果たさない人たちの命は保障しなくていい、と暗にほのめかされていたわけです。

いまこそ税と社会保障の話をしよう!

面白いのは、これは世界共通の概念かというとそんなことはなく、先の北欧の例のように、「働くこともできず国の世話になって生きているなんて可愛そう」という倫理観の国もあるということです。

 

そしてこれは本当に深く深く日本人に根付いているんですね。

そのような意識は、おそらくは法的な意味での勤労の義務よりもいっそう強くわたしたちの社会に根づいている。そして場合によっては、他者が生活保護を利用することに対する否定的感情につながる。さらにそれにとどまらず、自らが生活保護を利用するような状況に陥ってもなお「生活保護だけには頼らない、受給者といっしょにされなくない」という感情から、必要な保護を自ら遠ざけることにもなりえる。

社会保障のどこが問題か ――「勤労の義務」という呪縛 (ちくま新書)

分断を煽る所得制限

このようなメカニズムで生活保護はスティグマとなり、本当に必要な人が生活保護を受けられていないという現実があります。チャランポランな人は生活保護を受けることに抵抗がありませんが、(日本的)倫理観のしっかりした人ほど、無理して働いて、生活保護以下の収入で苦しむ(ワーキングプア)という現実があるわけです。

 

その結果、ますます生活保護を受けている人は蔑まれ、本当に生活保護が必要な人が受けられないという悪循環が続きます。

 

そしてこれをさらに促進しているのが所得制限です。子ども手当から医療費まで、さらには基礎控除でも、昨今は所得制限のオンパレードですね。これは一見フェアに見えて、実は分断を煽るだけだという見方があります。

一部の人を受益者にするやりかた――日本はその典型ですが――は疑心暗鬼を生みます。ろくに働いていないあいつらが、なんで病院も、学校も、子育ても金を払わずににすむのか。本当は働けるのに嘘をついているんじゃないのか。公務員は裁量的でいい加減な審査をしているんじゃないのか。ほら見ろ、生活保護が反社会的勢力に使われてるじゃないか。高齢者は大した病気じゃないくせに、病院に入り浸っているんじゃないか。考え始めたらきりがありません。

いまこそ税と社会保障の話をしよう!

実のところ、高所得者は高い税金を払っているわけで、それなのに社会サービス(保育園とか!)や給付金で所得制限を掛けられては、全く納得できるものではありません。さらに所得制限のチェックのために、無駄な事務経費が(相当)かかっていることを考えると、利権を守りたい政府の陰謀ではないか? とさえ考えたくなってしまいます。

 

所得制限なんて全廃して、全員一律でいい。それが不公平だというなら、税の累進性を高める方向で調整すべきだ。こういう主張は、ぼくはもっともだと思うし、とにかく社会に何の価値も生み出さない所得制限のチェックという作業はなくすべきだと思います。

 

ついでに、こういう一律給付が受け入れられないかというとそんなことはありません。コロナ禍に行われた現金10万円の一律給付を覚えているでしょうか? これは所得制限なしで、全員に行われたという点で画期的でした。本来、全員に同じように配れば不満も文句も生まれないのです。なんだかんだ条件を付けて、制限をつけるから分断がおこるのです。

日本という国は、意外と富裕層に優しくて、弱者に厳しい

さて「働かざる者食うべからず」という言葉は、働かない資本家に対するものではなく、さまざまな事情で働けない貧困者に対する言葉として、日本では扱われていることを見てきました。日本という国は、意外と富裕層に優しくて、弱者に厳しい。だからこそ、自己責任論もすんなりと受け入れられたのかもしれません。

 

僕自身は自由主義論者でリバタリアンですが、ジョン・ロールズの無知のヴェールがいうように、肯定されない格差はあると考えていますし、自己責任の名の下にセーフティネットを減らすことは許せないと考えています。だから自己破産も生活保護も大事な制度だと思っています。そういう意味では、実は世間の人よりも福祉論者なのかもしれないと思う今日この頃です。

 

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