「死ぬまでに資産を全部使い切る」派と、「資産を子孫にしっかり継承する」派の2つの考え方があります。ぼくは全部使い切る=DIE WITH ZERO派なのですが、なぜそう考えるのでしょうか?
DIE WITH ZEROか資産継承か?
『DIE WITH ZERO』という書籍は、「死ぬまでに資産を全部使い切る」ことを提唱しました。一方で、古来から財産の扱いについては「子孫にしっかり継承する」がスタンダードです。
これはどちらが正解というような話ではないのですが、特にDIE WITH ZERO=DWZ派の考えを誤解している人もいるようなので、参考までに僕の考えるDWZスタンスを紹介しておきたいと思います。
増える老老相続
死ぬまでに資産を使い切るというと、まるで全部自分で使ってしまい、子どもたちには何も残さないというようなイメージで捉える人もいるようです。実はこれ、真逆の内容で、子どもたちが本当にお金を必要としているタイミングでお金を渡してあげようというのがDWZ派なのです。
昨今、老人から老人に遺産相続で資産がわたる老老相続が増加しています。記事によると、すでに相続人の52%は60歳以上となっています。老人から老人に相続される。これがどんどん増えているのです。
一方で、考えてみてください。一番お金が必要になるのはどのタイミングでしょうか? 一つは子どもができて広めの家を用意するとき、2つ目は子どもを大学に出すときでしょう。老後の生活費も必要だという意見もあるかもしれませんが、自分が60歳になったときにちょうど親が亡くなってまとまった資産が入ってくることがわかっているのならともかく、親がいつ死ぬかなんてわかりません。下手したら、親よりも自分のほうが早く死ぬことだってあるわけで、遺産を老後資金としてアテにするのはちょっと難しいのです。
では60歳以降で遺産を相続してどうするのか。もうこの年から有意義な支出をするのも難しいものです。多くの場合は自分の老後資金は自分で用意していますから、相続資産はまさに退蔵するしかありません。結局、これがまた子どもに相続されるのです。子どもが還暦を超えたくらいのタイミングで。
お金が必要なうちに子孫に渡す
対して、遺産として資産を残せるようにするのではなく、子どもが必要とするタイミングでしっかりと使ってしまおうというのがDWZの考え方です。
- もちろん子どもの教育費(一人暮らし生活費とか留学費とか)
- 結婚したなら住宅費の支援
- 孫の教育費など
自分がお金がなくて困ったときのことを思い出してください。60を超えて遺産をもらうより、30歳くらいのあのとき、100万円でもあったらどれだけ楽だったか! 子どもは年老いてから遺産をもらうよりも、若いときにお金をもらえたほうがありがたいものではないか?
親からすると変なタイミングでお金を渡して、無駄遣いされたり支出習慣が歪んだりしないか不安に思うものです。でも自分自身を振り返っても、20代に入ってしまえばそんなことを心配する必要なんてないものです。
ジュニアNISA+贈与
そんなわけで、教育費などはもちろん、ジュニアNISAも満額、さらに毎年変則的に贈与も行っています。
ジュニアNISAは最大400万円まで支出でき、成人するまで引き出せませんが、その間非課税で運用が可能です。新NISAのスタートとともに消滅してしまったジュニアNISAですが、その前に満額投資できたのは本当に幸いでした。
2017年から始めたわけですが資産額はすでに900万円に。積立8年で2倍ちょっとですから悪くない状況です。子どもが成年するころには2000万円くらいになっていてもおかしくないわけです。
よく知られているように贈与は年間110万円までなら非課税です。つまり18歳で成人するまでに、ざっくり1980万円を贈与できるわけです。合わせて約4000万円。もし贈与資金を預金ではなく運用していれば、合計で5000万円くらいにはなっていそうです。
本人の管理下にない口座は名義貸しであり、贈与とも認められないわけで、成人するタイミングで「この口座は好きに使いなさい」と渡すわけですが、20歳前後でこれだけ受け取れば、相続財産がない!と恨まれる所以はないでしょう。
先祖代々の資産
僕自身はけっこうリベラルな人間なので、本人の努力によらない差というのは差別的だと思っています。例えば親が超金持ちだから生まれたときから超金持ちで死ぬまでずっと超金持ち……なんて人が世界にはよくいるわけですが、これが是だとはどうしても思えないのです。
コネで入社するのも差別的だし、コネで大学入学は犯罪的だし、本人の能力によらず親の地位で何かが決まるというのは前近代的な社会だと思います。一方で、能力と学歴が強く結びついている社会において、学歴はある程度課金で買えるというのも誰もが気づいている真実です。
親が金を持っていれば子どもは有利にスタートできる。逆に子どもの立場でいえば、親が金持ちか社会的地位が高いかどうかで出発地点が違う。血縁主義が批判されるのに、これが許容されるのはどうにも矛盾を感じるのです。
そんな中で、先祖代々の資産なんていうのはこういう階級を拡大する仕組みでしかありません。多くの資産を持つ人はさらに資産を増やし、資産を持たない人はスタート地点さえ低いところから。これでは世代を追うごとに貧富の差は拡大し、階級社会へまっしぐらなわけです。
そういう意味で、「3代続くと家が潰れる」なんて言われる相続税は、「単に親が金持ちだった」という資本家による階級化を防ぐという意味で、非常に重要な仕組みだと思うのです。極端な話、相続税なんて100%でもいい*1。先祖代々の資産なんてないほうが世のため人のため、本人のためだとさえ思うわけです。
「お前だって子どもにずいぶん金をかけているじゃないか。それは不公平じゃないのか?」と言われたらその通りなのですが、それはあくまで個人としての親から個人としての子どもへの贈与や供与であって、資産階級としての家の存続を願うような話ではありません。それが先祖代々の資産という話とは違うところなんじゃないかと思っています。
*1:「お前はリバタリアンを自称しているのに相続税を許容するとはどういうことだ?」とたまに言われますが、リバタリアンの中でも少数ながら相続税を肯定する人はいます。生きている人間には財産権があって、それを強引に奪う税金は悪です。しかし死んでしまった人間には財産権のありようがなく、つまり死んでしまったらそのとき持っていた財産は社会全体のものであっても理屈は通るでしょう。もし子どものことが心配なら、自分が生きているうちに教育を与えたり贈与をすればいいわけで、不慮の死が心配なら保険に入ればいい。相続財産を肯定する理屈のほうが難しいのではないかとさえ思っています。