
お金を増やすのはサイエンス(科学)で、お金を使うのはアート(芸術)だとよく言われます。この解釈はいろいろですが、一つの捉え方は、お金を増やす方法には正解があるが、お金を使うのに正解はないという点でしょう。
お金を何にどう使うのかは、その人の考え方や人生観が色濃く出るものです。そして多くの人は、お金を使えずに最後を迎えます。貯めるだけ貯めて、増やすだけ増やして、そしてそれは相続税に変わったり老老相続と呼ばれる、ひたすら次代に渡していくバトンのような資産となったりします。
ではなぜお金を使うのはそんなに難しいのでしょうか。考えてみました。
消費と投資
まず初めに、お金を使うといっても大きく2種類あることを前提としましょう。よく株クラである問題です。
なぜ100万円の株を買うのは逡巡しないのに、1000円のお弁当を買うのはこんなに悩むのか。
あたかも株クラの人が、投資と消費で金銭感覚が異なるような言い方なわけですが、これは明確に誤っています。投資というのはそれ以上のお金になって戻って来ることを期待して行うもので、消費というのは戻ってこないことを想定するものだからです。
100万円の株を買うときは、それが105万円とか、200万円とか1000万円になると思って買うわけですが、1000円のお弁当は食べてしまったらゼロ円になることを想定しています。これが違いです。
もちろん世の中にはその中間もあって、最たるものが不動産です。また高級時計、高級バッグ、高級スポーツカー、アートなども、消費的な価値を持ちながら投資としても位置づけられる消費先になります。
このとき、100万、1000万の株を買うのを躊躇しないのと同じように、不動産や高級バッグなどを買うのも躊躇しない。なぜならそれはけっこう投資的な側面が大きくて、なくなってしまうとは思っていないからです。

「オレは株と同じように不動産やバッグを買えない」という人もいると思いますが、それは対象への理解度の差もあります。日本株は買えても米国株はよく分からないとか、ドル円は買えてもプラチナは買えないとか、金地金は買えてもビットコインは買えないなど、投資対象をどこまでわかっているかで買える買えないは出てきます。極端な話、不動産やバッグ、クルマ、アートなども似たようなものでしょう。目利きの差です。
もう一つ、投資先によって対象者が限定されるというのもあります。ほとんどの金融商品は1万円あれば1万円分買えます。しかし、不動産となるとなるとそうはいかなくても、少なくとも数百万円、ローンを引こうと思ったら現金は少なくて済みますが今度は与信を通すだけの社会的信用度が必要です。これは意外と狭き門です。
高級バッグや高級スポーツカーなども、買ったら確実に値があがるような品物は、お店にいって「これください」で買うことはできません。そのお店のお得意さんになって多くの買い物をして始めて「実は限定品が入荷しまして……」とお誘いいただくものです。そういう意味でも狭き門なのです。
さて、そんなわけで、投資と消費は違い、消費と呼ばれるものの中でも特に高額なものは実質的に投資になってしまうものがあるということを書きました。そして、今回「お金を使うことの難しさ」という文脈では、投資してしまったらそれは使ったことにはならないのです。それは増やす方法のバリエーションであり、使う=減らす方法ではないからです。
消費の2つのベクトル
投資ではなく消費の中身も、もう少し分解して考えてみましょう。消費には大きく2つのベクトルがあると考えています。それは「浪費」と「コスパ」です。浪費というのは、支出に価値が見合っていないものを指します。よく「お金を使うのなんて簡単だ」という人がいますが、そういう人が挙げるのはだいたい浪費です。

浪費の典型例が、高いお酒が飲めるお店で湯水のようにお金を使うとか、使いもしないものをカネにものを言わせて買い漁るようなことでしょうか。確かにこういう使い方をすればお金なんていくらでも使えますが、こういうことに意味を見いだせる人は、そもそも自分で資産を構築なんてできないのかも。
コスパというのは、文字通りコストパフォーマンス。同じ品物でも高くなればなるほど品質もよくなります。ただし、価格が10倍になったら品質も10倍になるかというとそんなことはなくて、2倍とかに減るものです。質だけでなく量も同じで、典型的なのが食事です。1万円で美味しい食事を食べたら満足度が高いものですが、それを2人分食べても辛いだけで満足度は上がりません。
お金をかけるだけ質も量も増えるのですが、掛けた金額に比例しては増えない。つまりコスパはどんどん悪化するのです。
浪費にお金を使う価値を見いだせない。高価な品物やサービスに、コスパを感じられない。これがお金を使うのが難しい本質ではないかと、ぼくは考えています。
浪費の活用
ただ浪費は誰にとってもどんなときも浪費かというと、そうではありません。ここがお金を使うことが「アート」である所以なのでしょう。浪費の定義として「支出に価値が見合っていない」ことを挙げましたが、価値は人によってさまざまだからです。
例えば、推し活で大量のグッズを買ったり、投げ銭をしたりすることは、ある意味浪費だとも言えるでしょう。ただこれが例えば大相撲のタニマチとなると、単なる浪費から文化の担い手のような色彩を帯びて見えてきます。
何に価値があって何が無価値かなんて、人によって見え方は違っており、明確な基準はありません。これは自分のため/他人のため という切り口とも、社会一般通念としてどうかということでもなく、あくまでその人本人にとって価値があると考えられるかどうかです。
他人から見て浪費に見えることでも、本人にとって価値が感じられるなら、それは浪費ではなく意味のあるお金の使い方です。例えば、寄付などは社会一般では尊いことだと思われることが多いですが、人によっては単なる浪費にも見えるでしょう。要は自分がそれに価値を感じるかどうかです。
そして、一見浪費でも、自分の中で価値を感じられるものを見つけることが、1つのアートであり、お金の使い方の一つなのでしょう。
コスパの効用
もう一つ、コスパも見ていきましょう。コスパの面白いところは、パフォーマンスの部分が人によって大きく異なることです。
例えばワインなどが分かりやすいでしょうか。ワインは1本500円の格安ワインから、数百万円を超えるものまで幅があります。一応、価格が高いほど美味しくなるといわれていますが、普通の人は5000円〜1万円くらいまでしか違いが分からないようです。そこから先は、訓練を受け多くのワインを味わってきた人だからこそ、違いが認識でき、価格の違いの意味が分かる。
つまり、パフォーマンスの高低は誰が見ても同じように分かるものではなく、人によって感じ方が異なるわけです。どんな素晴らしいものでも豚に真珠。これです。
良いものの価値が分からなければ、パフォーマンスが頭打ちしているわけですから、コスパが最もいいのは比較的低価格なものになります。しかし、高いものの高い所以が理解でき正当に評価できれば、高価なものがそれだけの価値があることも理解できるわけです。
高いものの良さを実感できるようになること。これは体験し体感し経験していかなければ身につきません。それが、高価なものを納得して購入して使うことがアートとなる所以なのでしょう。
浪費せず効果に見合った使い方をしたい
お金を使うのは難しい。それは浪費をせず、効果に見合った使い方をしたいと考えるからです。そのためには、自分の中で価値があると考えられるものの幅を広げ、そして高価なものが高価である所以をしっかり理解できた上で、それに見合った使い方をしたい。
貯蓄や投資は、支出の先送りです。これまで稼いだお金を使わずに取っておいたから現在の資産があるわけですが、それをどこかで使わなければ先送りでさえありません。取っておきたいなら取っておくのも自由でしょう。ただ必要以上に余らせてしまっては、意味のあるお金の使い方を見つけられなかったということでもあります。
お金を貯めて増やすのはサイエンス(科学)で、さまざまなところに正解が書かれています。一方で使うのはアート(芸術)で、使う側にもセンスが求められる。そこに正解はありません。これを磨いていくのもまた楽しいものです。