九条です。FIRE後の自由な生活をベースに、投資・税制・制度・クリプト・法人運営を考えるブログです。 利回りや還元率の表面ではなく、税引き後の手取り、制度の前提、リスクと不確実性を見ながら、自由を増やす方法を書いています。

FIRE者にとっての「ラストエリクサー症候群」

「ラストエリクサー症候群」とはゲームで手に入る最も強力なアイテムを、「もったいない」「もっと大事な場面が来るかもしれない」という心理から、結局使わないままゲームをクリアしてしまう現象を指す言葉です。

 

これ、なにかに似ていませんか? そう。資産を構築して退職しながらも、資産を使わないまま人生を終えてしまう投資家たちです。ここにある心理はどのようなものなのか、マジメに考察してみました。

ラストエリクサー症候群とは不死の儀式だ

なぜ投資家は、資産を残したまま死んでしまうのか。たぶん「もったいない」「もっとお金を有効活用できる大事なタイミングが来るかもしれない」という意識でしょう。まさに投資家にとってのラストエリクサー症候群です。

 

でも突き詰めると、ラストエリクサー症候群の根底にあるのは「死の否定」だと思うのです。エリクサーを持ち続けるのは「まだこれを必要とする未来がある」と考えているから。逆にいえば、使った瞬間にラスボス(死)が存在し接近していることを認めることになります。

 

もしガンなどになって死期が分かってしまったら、資産を温存しようとは思わないでしょう。少なくとも、お金で解決できることはお金を費やようと考えるはずです。死にゆく者にとって、いくら資産があっても意味はないからです。

 

だからエリクサーの温存は、毎日行う軽い「不死の儀式」です。時間の有限性を見ないことにする仕掛け。エリクサー同様に資産を使わず持っている限り、投資家は不死なわけです。

 

FIRE後、多くの投資家が高配当に引き寄せられ、取り崩しを嫌い、元本に手を付けないようにするのも、同様に不死の儀式です。取り崩しは自分の死を想定し、それに向かって一歩一歩歩みを進めることにほかならないからです。

DIE WITH ZEROは俗流版メメント・モリか

このようにラストエリクサー症候群が、自分の死から目を背ける行為なら、その対極にあるのが「メメント・モリ」――ラテン語で「死を忘れるな」という言葉です。

 

メメント・モリ(memento mori)
ラテン語で「死を忘れるな/おまえは死ぬということを思い出せ」。古代に発し、ストア派(セネカ、マルクス・アウレリウス)で「死を見据えることで今を正しく生きる」という倫理的実践になり、のち中世〜バロックのキリスト教文化で視覚芸術として爆発的に展開した。
ローマの凱旋式で、勝者である将軍の背後に立つ奴隷が「うしろを見よ、おまえも人間にすぎぬと思い出せ」と囁き続けて慢心を戒めた——という逸話がよく引かれる。

これを「死を意識すると生が充実する」とだけ読めば、それはDIE WITH ZEROの俗流版になるでしょう。「死ぬまでに体験を最大化しろ」というのはまさに、消費主義的メメント・モリだからです。

 

このメメント・モリ、実はもっと奥深い概念です。古典を読み解くと、ストア派にとってメメント・モリとは、執着を減らす思想だということが分かります。死を日々予行演習すれば、地位も富も恨みも恐怖も正しく小さく見える。アレクサンドロスもラバ追いも行き着く先は同じ。死ねばみんな一緒。

 

だから死んでなくなるような物事に執着するなというわけです。これによって得られる「充実」は経験の最大化ではなく心の平静になります。

 

メメント・モリの中世キリスト教の系譜はもっと過激で、こちらは「この世の生を充実させるな」とすら言ったようです。死を想うことで、移ろう地上のもの(富・肉・名声=まさにヴァニタス画の品々)に魂を投資するな、と。いってみれば世界放棄であって、生の謳歌ではありません。

これ仏教の思想、無常(諸行無常)にも通じますね。移ろうものに執着するからこそ苦がうまれる。だからこそ執着を手放すことが平穏につながるというものです。

時間は有限だという事実に向き合う

ラストエリクサー(これは資産と言い換えてもいいでしょう)を退蔵する人は、無意識に「時間が無限であるように」生きようとしています。

 

でも、ラストエリクサーを使う瞬間を意味あるものにしているのは「時間が有限だ」という事実それ自体です。無限の生においては、常に次があり、だからそんな人生ではどの瞬間もエリクサーを使うに値しません。

 

ここまで来ると、ラストエリクサー症候群が単に「もったいない」で終わる話ではないことに気づきます。その心の奥底にかかえる死の否認とは、単なる臆病という話ではなく、時間の希少性というエリクサーの使用を意味づける条件自体を破壊しているのです。

 

メメント・モリを意識し、俗流版の「生の充実」でもいいし、この世の諸々に執着すること自体が苦だと悟りを開いてもいい。いずれにせよ、どこかで自分の「死」と向き合わなければいけないと思うのです。

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