飲食店でも物販でもネットのサービスでも携帯でも、新規加入に対しては無料キャンペーンとか行うのに、長く使っているロイヤリティユーザーとか頻繁に利用するリピーターについては、一切値下げとかしないという話があります。これはなぜでしょうか。
新規顧客 vs リピーター客
新規顧客の優遇策は、枚挙にいとまがありません。
- 初回無料、初回30%割引
- 最初の1カ月無料
- 月末まではフリーレント
- 契約で1万円キャッシュバック
こんなふうに初回顧客をものすごく優遇する反面、長く使っているロイヤリティユーザーとかリピーターには、けっこうしょぼい特典しか出さない企業がたくさんあります。ドコモとかは「ずっとドコモ割プラス」とか継続利用期間に応じて特典を増すものもありますが、これはレア。普通は「解約します!」とかいうと、「解約やめてもらえれば3万円あげます」なんて引き止めのときにいわれるくらいです。
これはなぜか?
生涯顧客価値=LTV
この疑問、なんとなくこうかなぁ?とか思っていたのですが、実はロジックとエビデンスの裏付けがありました。『そのビジネス課題、最新の経済学で『すでに解決』しています。』という本に、なるほどと思う形で紹介されています。
慶応大学の経済学部、星野崇宏教授のパートで、「CRMとはLTV最大化のためのツールである」という話があります。
CRMはCustomer Relationship Management」の略で、日本語では「顧客関係管理」と言い、顧客情報や行動履歴、顧客との関係性を管理し、顧客との良好な関係を構築・促進すること。
なんてありますが、お客さんのデータベースかな?くらいで、けっこうぼんやりした理解にしか至りませんでした。でも、教授は、CRMはLTVを最大化するためのもので、CRMにはLTVが入っていなければならないといいます。ではLTVとは何でしょうか。
LTVとは、Life Time Value(ライフ タイム バリュー)の略で、「顧客生涯価値」。
これはその顧客から生涯に渡って得られる価値のことを指します。例えば、ドコモにとって「九条のLTVは50万円だ」なんて計算するのです。
売上高が顧客と単価の掛け算であることはよく知られています。一方で、これは視点が短期に偏ってしまいます。視点を時間軸に変えて、顧客が生涯支払ってくれる額=LTVを計算することで、事業の打ち手が変わってくるというわけです*1。
例えば、ある事業で平均LTV(粗利)が10万円見込めるとします。このとき、顧客獲得コストが10万円以内なら、この顧客は利益をもたらしてくれることになります。
顧客コスト1万円をかけて100人獲得すると、LTVは1000万円、獲得コストが100万円で、想定利益は900万。一方、顧客コスト5万円をかけて200人獲得すると、LTVは2000万円、獲得コストは1000万円で利益は1000万円です。計算上、獲得コストが5倍になっても獲得人数が2倍になれば利益が増えることが分かります。
このように、CRMでは顧客のLTVを記録して、打ち手がLTVをどう変化させるかで評価するべきだと、教授は主張するのです。
新規顧客とリピーター
このようにLTVを評価軸として打ち手を評価すると、新規顧客とリピーターのどちらを優遇したほうがいいのかという問題も、数量的に評価できるようになります。要するに、新規獲得にお金を費やして得られるLTVと、そのお金をリピーターに費やしてアップするLTVを比較すればいいのです。
リピーターに対する特典というのは、要は「解約しないでね」か「もっとお金を使ってね」というのが狙いです。同じコストを費やしたとき、新規獲得よりもリピーター施策のほうがLTVが上昇するときに限って、意味があるというわけです。
ところがここで面白い調査結果があります。Minらが2016年に行った、41カ国の携帯電話会社のデータを用いた研究です。ここでは、
4半期ごとの新規加入者と現在の顧客から離脱率を計算し、また販促費の変動と新規顧客数・維持された既存顧客数の関係から成立する式を導いて、一人の新規顧客獲得のコストと既存顧客維持コストを出しています。
ここから読み取れることは、肌感で感じていたことを見事に数字化してくれます。
- 「既存顧客の維持コストは安い」。新規顧客獲得コストは維持コストの2〜5倍
- 競合が増えると、「新規顧客獲得コストは増える」が「顧客維持コストは変わらない」
- 顧客維持コストは、トップ企業とフォロワー企業で変わらない
- リーダー企業の顧客獲得コストは、製品やサービスが普及すると大分下がる
まず(1)から。これを見るだけで、なるほどリピーターにお金を使うより、新規顧客獲得にお金を使うのが、ビジネス上は常道だということがよく分かります。まさに「釣った魚に餌はやらない」のです。
ただしこれは状況によるともいえます。(2)にあるように、競合が増えると新規顧客獲得コストが増大するので、どこかで「既存客のつなぎとめにコストを費やしたほうがLTV増に与える影響が大きい」となるポイントが出てきます。
潜在的に競合が多いスーパーとか小売店などで、スタンプ制度とかハウス電子マネーのようなリピーター優遇の仕組みが多いのは、それが理由かもしれません。逆に、競合がほとんどいない寡占状態の携帯業界では、既存客に対する特典はほとんどありません。
(3)と(4)を見ると、面白いことが分かります。顧客維持コストは、トップ企業でも2位、3位企業でも新規参入企業でも変わらないのですが、そのジャンルがコモディティ産業になるほど、新規獲得コストは変わります。レガードの人たちは商品やサービスを選択するとき、最大手であるという安心感を重視するため、トップ企業の獲得コストが安くなりがちなのです。
つまり現在の状況でいえば、新たに携帯を契約する人はドコモやKDDIなど古くからの安心感のあるブランドを選び、新興の楽天モバイルは選ばないということです。別の言い方をすれば、楽天モバイルは新規獲得コストがかなりかかるということです。そしてせっかく獲得した顧客は、LTV向上のためにいろいろな策を打つべきで、いきなり「0円やっぱやーめた」なんて発表して、顧客数純減なんてやっている場合ではないのです*2。
そのため、未成熟な市場ならば、初期費用が高く見えてもガンガン投資して新規顧客を獲得し、業界トップになれば、その後の新規獲得も楽になります。昨今のSaaSで起きているのはこのロジックですね。
『そのビジネス課題、最新の経済学で『すでに解決』しています。』
というわけで、『そのビジネス課題、最新の経済学で『すでに解決』しています。』の本はけっこう面白い。例えば、オークションの設計を手掛けた経済学者が、ブロックチェーンゲームのオークション販売を手掛けたという話が載っています。
ここで問題になったのは、そのデジタルカードを「何枚販売するか?」でした。デジタルカードのオークションでは、販売数も運営側が決められます。欲しい人がたくさんいるのであれば、1枚販売するよりも2枚販売したほうが総売上は大きくなることが容易に想像できます。でも100枚販売してしまっては、結果的に1枚の価値が落ちて、金額が小さくなるかもしれません。1万枚販売なんていったら、誰も買い手が付かないことだって考えられます。たくさん発行するほど希少価値が下がって価格はゼロに近づく。そして、この枚数を発行側の任意ではなく、オークションのプロセスの中で最適に決まるようにしたいというのが問題だったそうです。
では経済学の知見を使い、この問題の答えをどう導いたか。気になる方は本書にて。
ちなみに、この本全体としてはいい本なのですが、学者が執筆していろいろな研究についても触れられているのに、巻末にもどこにも参照文献のリファレンスがありません。ほんとこれはいただけない。あり得ないって感じです。先の「Minら2016年」の研究も、原論文を見つけることができませんでした。発売元は日経BPなのですが、編集者がいまいちなのか編者がアカデミックっぽくしたくなかったせいかわかりません。でも、ここが最も惜しいところです。