児童館の入館ルールを厳格に運用した結果、3人の子供を抱えて入館できなかった、というニュースが話題になっています。愛読している「20歳275か月の棺桶リスト」ではこれを取り上げて、
ルールや規則は、人が社会生活を営む上で支障が起きないように便宜上設定されているもので、支障が起きないのであれば、別に守る必要はない(守りたければ守れば良い)。
と感想をあげていました。
利用者を守るためのルールによって利用者が不便を被ったという話ですが、どちらの言い分も分かります。
運用側からすると、何かあったときの責任問題があります。ひとつの解決策としては、自己責任で使うのであれば、他人に迷惑をかけない限りはこういうルールは破ってもいいんじゃないかというものがあります。ただし、昨今の風潮では、何かあったら運営側が非難されるので、防衛的にルールの厳格運用をしたくなるのも分かります。
ぼくとしては、他人に迷惑をかけない限り、問題が起きたときは自己責任で考えるべきで、施設側の責任を問うのは限度があると思っています。観光名所で人が落ちたら「柵を自治体が整備すべき!」と声が上がる日本と、「こりゃ危険だからいままで落ちなかったのが不思議だけど、まぁ自己責任だよね」で終わる欧州の違いですね。この点、ぼくは自己責任だろう、と思う立ち位置です。
もうひとつの点は、ルールを作ったものの運用はそのときそのときで、職員と利用者のやりとりで決まる形だと、職員に不要な裁量が生まれてしまうという課題です。前回はOKだったけど、違う人が対応したらNGだった、なんてことが起こります。官僚は、あえてルールを明確にしないで、自分たちに裁量を残すことをよくやりますが、これは自分たちの権力を残しておきたいというだけでなく、刻々と状況は変わるけど、ルールを変えるのは簡単ではないので裁量にしておくという意味合いがあります。
逆に、裁量をなくそうとすると、ものすごく細かくて複雑なルールになります。先日自治体の起業支援策を使おうとしたら書類がすごくて大変だったという記事を書きましたが、こういうことになります。
ルールの厳格運用で思い出すのは、先日読んだ「『法令遵守』が日本を滅ぼす」です。法律の意味合いや実情を無視して、形式上法律を守ることが最重要だというマインドが最近増えています。言ってみれば、思考停止です。形を整えるために、本来不要な書類うを用意したり、法の狙いの逆の結果になったりします。例えば、下請を守るための下請法を遵守しているという形を作るために、下請に無理をいって契約をバックデートさせたりということさえあり得るという話です。
こういうこともあるので、法やルールの背景を考えて、破っていいなら破るべきだよね、と思うのですが、これはその認識が共有されないと、自分だけが被害を受けることもあります。
以前、深夜3時くらいの湾岸埋立地で車を走らせていて、一時停止違反で検挙されたことがありました。あたりは真っ暗。人っ子一人いませんし、この時間にこの場所に徒歩でいるというのは、犯罪者くらいだろう? というような場所です。ところが、パトカーがライトを消して待ち伏せしていたんですね。
確かに一時停止違反は法律違反です。そして、人がいなければ止まらなくてもいいという例外もありません。でも、この状況で一時停止をしないことで、誰にどんな迷惑がかかるのかというと本当に疑問でした。でも、検挙に対して認めずに裁判にしても、おそらく裁判所は認めないでしょう。それが法だからです。
ルールや法は、それを執行する側もいて、そちらがまぁ迷惑かけなきゃいいよ、というスタンスでないと破ることは難しいのです。
法は法だから1ミリでも破ったら違反、というのが、日本でいうスジですが、意外というかお隣中国では、それによって実際に被った迷惑がどのくらいかで考える人が多いのだといいます。
行列に割り込む人に対する態度の例が秀逸でした。
例えば、駅の切符売場に並んで待っている時、自分の前に誰かが割り込んだらどうするか。
その瞬間、中国人の頭に自動的に湧き上がってくるのは
「この人物が割り込むことで、自分が切符を買う時間がどれだけ遅れるか」
ということである。力点はここでも「自分への影響の大小」にある。「割り込みはよくない」という世界一律の規範にあるのではない。ここがポイントである。
その結果、誰かが列に割り込んだ行為に対して、怒る人と怒らない人が出てくる。自分が急いでいて一刻も争う事情がある人は、その割り込みに対して、その瞬間に大いに怒る。しかし一方で、あまり急いでいない人、時間に余裕のある人は、「まあ1人や2人割り込んだところで、致命的な影響は生じない。(もちろん愉快ではないが)たいしたことではない」と考えて、黙認する。
ある種、現実的というか、ルール自体より実態重視というか。自分自身でいうと、スジ論でつい考えてしまうところと、まぁあんまり悪影響がないんだからいいんじゃない?と量の論理で考えるときが同居しているので、なんとも言えないのですが、最近日本ではスジ論が幅を効かせてきていると感じることが多くなってきました。
ちなみに、ルールを厳密に守るという考え方の裏側には、「ルールに書いてないんだからやっちゃえ」という、いわゆる抜け道を探す考えがあります。法やルールの背景にある考え方に従うなら、抜け道があってもそれを行くのはいけないことですが。
文字通り従うのではなく背景を考えて運用するほうがいい、とぼくは考えていると最初に書いたけど、文字通り従った上で抜け道を探してしまう場合も実はあります。
節税がそうです。税金なんてものは、できるだけ公平に不公平なく集めるために法律があります。だから、その背景を考慮するなら、法の抜け道を探して節税するなんてとんでもないともいえるでしょう。
ではなぜ節税に躍起になるかというと、「みんながやっているから」です。ある人はうまいことやって節税しているのに、自分はバカ正直に税金を払うというのはどうにも納得がいきませんね。それは、税金は「公平に不公平なく」という、大元の背景に矛盾してしうまうからです。
最後に、ルールは破るか抜け道を行くかのどちらでもなく、「ルール自体を変えてしまえ」という考え方もあります。例えば、法律ではなく社内ルールなどなら、うまく立ち回れば意外と変えることができちゃうものです。上層部に頭の固い人がいないことと、その社内ルールがどこかで法律に連動していないことが条件ですけど。
こちらは、ヤフーの法務部が書いた、法律を変えるための方法論をまとめたものです。ネットに関する法律は未整備で状況がすぐに変わることもあり、法が実態にそぐわなくなっている場合がよくあります。ならば、うまく働きかけて法を変えてしまえ、という本です。
法令遵守の印籠のもとに思考停止に陥るくらいなら、法律を変えてしまうほうがよほど建設的だと思いますし、しょせん法なんて人が作ったものです。法律なんだから絶対に守るものだという発想だと、仮に独裁政権が生まれてひどい法を作り始めたら、ぼくらの暮らしは確実に悪くなります。法がおかしいなら変えてしまう、自分が法やルールを執行する立場ならできるだけ制定した際の背景に基づいて運用する、そんなことを大事にしたいと思います。