マイケル・サンデルの新著『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでいます。ぼくは基本的にリバタリアンで、コミュニタリアンの考え方には賛同しにくいのですが、本書が指摘することは確かに現在の資本主義の課題を言い当てていて、さらにその処方箋も描いています。マイケル・サンデルって、本当に訴える力が強いんですね。
現代の資本主義の課題
経済論とはすなわち政治論でもあって、どのような社会が望ましいのかを表しています。人類の歴史は、ファシズム、共産主義、自由主義という3つの物語の争いでした。第二次世界大戦でファシズムは破れ、ソ連の崩壊で共産主義も瓦解しました。現在、主流の思想は自由主義です。そして、自由主義は資本主義と強く結びついています。これをユヴァル・ノア・ハラリは「自由主義のセットメニュー」と呼びました。
ところが、自由主義が本質的に依存している経済成長は、このところさまざまな矛盾が表出してきています。
- 格差の拡大
- 環境破壊
- テクノロジー礼賛によるAIやバイオテクノロジーの野放図な発展
これらは資本主義と密接に関わっており、資本主義の根本でもあります。資本主義の一部を否定しなければ、これらを根本的に解決するのは難しいところもあります。
そして、マイケル・サンデルはこの中でも「格差の拡大」をもたらす、「能力主義」に焦点を当てました。
機会の平等は理想郷なのか
「能力が高い人は、より重要な仕事につくべきだし、リーダーになるべきだ。そしてその能力ゆえに他の人よりも高い報酬を得るべきだ」。簡単に言ってしまえば、これが能力主義です。
独裁主義の中国にあっても、能力主義は徹底されていて、高い地位に就く人は基本的に能力の高い人です。こうした能力主義は、世襲の北朝鮮や血筋によって地位が決まるインドのカースト制に比べれば、全然まともだといえます。
サンデル氏は、米国の大学では能力に基づいた正門からの入学だけでなく、寄付金の多寡による裏口入学が一般化してきていて、しかも正当化されつつあると言いますが、それに比べれば、(ジェンダー差別はあるにしても)日本の大学入試や国家公務員試験はまだ純粋な能力主義だといえそうです。
血筋やお金、人種や性別に関係なく、純粋な能力に基づいて平等な機会が与えられるべきだ——。これは日本人にとっても、なんとか解決しなくてはいけないこととして、目指されてきたし、まだ課題はあるにしても、そんな世界に近づいてきたのではないかと思います。それが理想郷だと信じて。
しかし、サンデル氏はそんな能力主義に潜む課題を挙げます。
頂点に立つ人びとは、自分は自分の手にしている境遇にふさわしい人間であり、底辺にいる人びともまたその境遇にふさわしいという独りよがりの信念を持ちやすい。これは、テクノクラート的な政治につきものの道徳的姿勢である。
たしかにこれには実感を持ちます。周りの起業した人や企業のトップ層に上り詰めた友人と話すと、能力が高ければ相応の待遇が当たり前、低い待遇の人は能力が低いんだから仕方ないと、心から信じている人がほとんどです。ネットの有名人だとホリエモンとかが代表的かも。
そしてこれは限りない報酬の格差をもたらします。 政治の通信簿がGDP成長で表されるように、資本主義下の事業においてはその評価は利益額で決まります。そして個人の評価でいえば、その人、またはその人のチームが生み出す利益で決まるからです。「10倍の利益を稼いでいるんだから、給料も10倍だろう」。ピュアな資本主義の下では、この発想に異を唱えることは難しくなります。
能力主義(メリトクラシー)の課題
サンデル氏が問題を指摘するのは、こうした考え方です。
運命の偶然性を実感することは、一定の謙虚さをもたらす。「神の恩寵がなければ、つまり幸運な偶然がなければ、私もああなっていただろう」と感じられるのだ。ところが、完全な能力主義は恵みとか恩寵といった感覚をすべて追い払ってしまう。(略)自分の才能や幸運の偶然性に思いを巡らすことで生じうる連帯の余地は、ほとんど残らない。こうして、能力は一種の専制、すなわち不当な支配になってしまうのである。
俺たちは能力があるから恵まれて当たり前、おまえたちは能力がないんだから給料も安くて蔑まれて当たり前——。こうした考え方が支配者層で普通になるにつれて、世界各国でポピュリストが台頭してきたとサンデル氏はいいます。
米国でトランプ大統領を生み出したのは、まさに「能力がないから蔑まされて当たり前」だとされた人たちの支持でした。イギリスのブレグジットでは、大学教育を受けていない有権者は圧倒的にブレグジットに賛成票を投じたが、大学院の学位を持つ有権者の大多数は残留に投票したといいます。
分断、格差の拡大は、単に資産額の開きや給与額の開きではなく、尊厳の問題、道徳の問題だとサンデル氏は指摘するのです。
この考え方は実は長い系譜があります。1958年に「メリトクラシーの法則」を著した英社会学者のマイケル・ヤングは、能力主義(メリトクラシー)に対して、こんな警鐘を鳴らしました。
(能力主義は)勝者の中にはおごりを、敗者のあいだには屈辱を育まずにはおかないからだ。勝者は自分たちの成功を「自分自身の能力、自分自身の努力、自分自身の優れた業績への報酬にすぎない」と考え、したがって自分よりも成功していない人びとを見下すことだろう。出世できなかった人びとは、責任はすべて自分にあると感じるはずだ。
運と謙虚さ
果たして能力とはなんなのでしょう。自分自身を振り返ると、能力に対する万能感があったのも事実です。もちろんそこには壁もあって「いやぁ、この人には敵わないや」という壁や、「この分野は努力しても無駄だな」という無力感もセットです。
そして「本当に自分は運が良かった」とも強く感じています。人生にはいろいろな節目がありますが、そこで選んだ道は、一見自分の選択のように見えて、実は偶然の積み重ねが大きいからです。
大学を卒業して就職活動をしているとき、実は名の知れた大企業からことごとく落とされました。その中には、現在苦境にあえいでいる企業もたくさんあって、あそこに行かなくて正解だった……なんて後知恵で思ったりもしていますが、これは自分に能力がなかったから、あるいは運によるものです。
最終的に2社からもらった内定で、どちらに行くかけっこう悩みましたが、そこで選んだ会社は正解でした。片方は数年後に他社に救済合併され、大規模なリストラを行っていました。
入社後の仕事においても、転機となったのは能力とは関係ないところです。新規事業を始めるにあたり、最初に指名された人がそれを断り、そのためにぼくにお鉢が回ってきました。これを受けたことが、ぼくのキャリアの始まりです。
その後の昇進も、能力ではなく、上司がコンプライアンス上の問題で、部署の兼務ができなくなったために起きたことでした。事業が成功したことも、たまたま当時その業界に追い風が吹いてくれたから。ぼくよりも能力が高いと思っていた人が、逆風の領域で苦戦し苦しんでいたのを今も覚えています。
こんなふうに自分を振り返ると、人生の成功不成功なんて、8割がたは運だなぁなんて思ってしまいます。確かに能力の高い人は成功する可能性は高いのですが、能力が低くても成功してしまう人は意外とたくさんいますし、能力が高いのに不運続きで不遇に喘いでいる人もたくさんいます。
2019年の東大入学式で上野千鶴子氏が行った祝辞が話題になりました。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
そう。環境と運。能力は確かに重要な要素なのですが、同じくらい運は結果に影響します。投資家のあいだでも、企業分析スキルやモダンポートフォリオ理論をかじった人の中には、「この方法なら成功して当然だ」という考えの人が一定数いますね。これは、投資における能力主義だと思うのですが、実はそこにも運がたっぷり入っていることは忘れてはいけません。
投資において特に難しいのは、その結果が能力によるものなのか運によるものなのか、判別が難しいことです。だから、ぼくは「上手くいったのは運が良かったから、失敗したのは能力が低かったから」だと、できるだけ思うようにしています。それでもなかなか難しいんですけど。