投資に対する考え方に、示唆的で自分の思考をアップデートできる一冊に出会いました。プロポーカープレイヤーが書いた『確率思考』です。投資家にとっては、示唆的なことが多く、自分のスキルと運をどう捉えるかについて、考え方をアップデートしてくれる一冊でした。
意思決定とは何か
将棋や囲碁のようなすべてが論理で成り立っているものと違い、世の中のさまざまな出来事は、スキルと運の両方でできています。スキルがあっても運が悪ければうまくいきませんし、逆もしかり。投資も同じです。そして、どこまでがスキルの力で、どこからが運なのか、その境目は判別が付きません。
この「どこまでがスキルか」が分からないことが、世の中の出来事を難しくしています。スキルを向上させるには、いわゆるPDCA、
- 仮説を立てる
- やってみる
- 結果を確認する
- もう一度仮説を立て直す
という流れを繰り返す必要がありますが、「運」が入ってくると、結果を確認したときに、それがスキルのせいなのか、運のせいなのか分からなくなってしまうからです。
ある投資手法を考えて実行したとします。運がゼロの世界なら、これで儲かったらさらに同じ方向で手法を洗練させればいいし、損したらこの手法はダメだ、と諦めます。ところが、運がある世界では、儲かっても手法が良かったせいなのか運が良かっただけなのか、判別が付かないのです。実は結果を意識しても仕方ないのです。
さらに、人間にはスキルと運を自分の都合のいいように使い分けるという悪癖があります。
ポーカーをしていたころは、私も勝ったら自分の力で負ければ運のせいだと考えるところがあった。これは人間の根底にある衝動だ。
投資でも、儲かれば「狙いがあたった」と考え、損すれば「運が悪かった」とする。本当によくある話ですね。このように自分を正当化する考え方を「自己奉仕バイアス」といいます。著者は、成功している人は運の効果を都合よく使わず、適切に思考していると説きます。
それぞれの分野のトップで活躍する人々を見ると、学習を妨げる自己奉仕バイアスが薄らいでいるか、完全に消失していることがわかる。自己像をきわめて論理的にとらえられる人は、正確な自己批判をする習慣を身に着けている。
白か黒かではなく、確率で考える
話は分かった。確かに運はあって、それはうまくいくことに貢献することもあれば、失敗につながることはある。運を都合よく解釈してはいけない。で、どうする?
筆者は、まず物事を白か黒ではなく、確率的に考えることを勧めます。「これが正解だ」と確信しているから、それで失敗したときに運のせいにしたくなるわけです。
確率論の視点で考えるようにすれば、望ましくない結果だけ見て決定が間違いだったと判断する恐れは減る。決定そのものは正しくても、運や情報の不完全性、そして分析のためのサンプルの少なさが悪影響を及ぼした可能性があると認識できるからだ。
これはつまり、「うまくいく確率は60%、失敗する確率は40%」というふうに考えるということです。 このように運を受け入れることで、運に左右されたかもしれない結果について、クヨクヨ考えたり自己奉仕バイアスに陥ったりしなくて済むというわけです。
著者はポーカーのセミナーをするときも、過去の自分のプレーを挙げて解説するが、話すのは意思決定の時点までにして、勝敗の結果には触れないのだといいます。
「待ってください。プレーの結果はどうなったんですか?」そう聞かれると、私は赤い錠剤を差し出した。「それはどうでもいいことです」
スキルを高めるためには、意思決定のロジックに注力すべきであり、その結果起こったことはスキルを向上させるためには使えない。だって、どのくらい運の要素があったか分からないから。こう言われると、なんだかな……という気もしなくもありませんが、投資に限らず何でもこの視点はけっこう重要です。
事業や投資では「結果がすべて」とよく言われますが、その結果を向上させるにはスキルを向上させるしかありません。そしてスキルを高めるには、意思決定の一つ一つを検証し、誤りがなかったかを考えるしかないわけです。
具体的には、最良の結果が出るようなロジックに基づいて計画し、さらに運の影響をカバーする方法も考えておくことになります。投資でいえば、どうヘッジしておくか? とかですね。
フェイクニュースの正体は何か
もう一つ、面白かったのはフェイクニュースに対する考察です。調べれば明らかにウソと分かるような発言をしたり、SNSに投稿するのはなぜか。まず、人は最初に得た情報を、無条件に信じ込んでしまうという特性があります。
私たちはほとんどの情報を検証せずに主観を形成するが、それを明らかに訂正すべき情報を受け取ったあとでもその主観は消えない。
それに反する可能性のある新しい情報に出会ったとき、私たちには二つの選択肢しかない。(a)自分が100%正しいという理解から100%間違っているという考えへの大幅な変更か、(b)新しい情報の無視または否定である。自分が間違っていると考えるのは気分が悪いので、私たちは(b)を選ぶ。
そして、後にその情報を否定する情報に出会っても、考えを変えるのではなく、「情報が間違っている」という態度を取りがちだというのです。「私たちは新しい情報に合わせて主観を変えるのでなく、自分の主観に合うように情報をねじ曲げて解釈してしまう」と筆者はいいます。
そう、フェイクニュースはウソのニュースを流して人々の考え方を変えようとしているわけではありません。なんとなくそうかもと思っている人の意見をより強固にするように働くのです。
フェイクニュースは人の考え方を変えようとするものではない。もうおわかりのように、主観はそう簡単に変わらない。フェイクニュースは、それを聞いた者がすでに持つ主観を定着させ、さらに増幅させる可能性を持つだけ
SNSが普及する中、フィルターバブルという言葉が生まれました。これは、リコメンドやマッチングアルゴリズムの結果、人々はまるでバブルに包まれたように、自分が見たいと思っている情報にしか触れないようになっていくというものです。Twitterでは、自分と似た意見の人ばかりが頻繁にタイムラインに登場し、心地よい場を作り出します。自分の意見を否定するような人はアルゴリズムが排除しますし、手動で消してしまうこともできます。
こうやって、十分な証拠や論理ではなく、似通った人たちの意見が互いに増幅することで、誤った情報でも信じ込んでしまうわけです。
「誰が言ったか、何を言ったか」という古典的な問があります。誰が言ったかのほうが重要だと主張する人もいるのですが、ここにもバイアスがあることを忘れてはいけません。
情報提供者に対して否定的な意見を持っているとき、私たちは彼らの言葉に心を閉ざし、そのために多くの学習機会を逃す。同様に、相手に肯定的な印象を持っている場合、私たちはあまり検証せずにその情報を受け入れがちだ。これらはどちらも望ましくない。
ぼくは理性を重視する人間なので、誰が言っているかは基本的に参考にせず、何を言っているかを注視します。結果責任よりも説明責任を重視するという立場です。
確信を持たない。「分からない」ことを恥じない
世の中で人気のある人の言動には特徴があります。物事に対して「言い切り」「断定」し、「絶対」と形容し、一度決めたことは決してブレず、一貫した行動を取ろうとします。人はこういう人に惹かれ、尊敬するという研究結果もあります。
一方で、真実を追求する、スキルを高めるための考え方は違います。先に書いたように、スキルと運が混在する世界では、「絶対」はありません。「100%株価は上がる」ではなく、「いろいろな要素を検討したところ、株価が上がる確率は60%だ」と考えるのが知的に誠実です。運がゼロということはないからです。
さらに、ロジックをいくら検討しても、カオス的に複雑すぎる、運の要素が強すぎて、なんとも言えないこともあります。このときに「わからない」と答えるのが正しい態度でしょう。
「わからない」は、客観的な真実が存在しないという意味ではない。むしろ、不確実性を認めることは客観的真実に近づくための第一歩だ、というのがファイアスタインの論点である。そのためには、「わかりません」や「自信がありません」を禁句扱いするのをやめる必要がある。
運の要素が極めて少ない自然科学の領域でさえ、科学者は断定を避け、「このほうが確率が高い」という言い方をします。また反証が出てくれば、考え方を変えますし、分からないものごとについては分からないといいます。
でもこれは、世間的に見ると責任回避の姿勢に見えたり、言うことをコロコロ変えて信念がないように見えるわけです。人は社会の中で、リーダーシップを取るために、こうした言動を避けるようになっていきます。
一方で投資の世界のいいところは、人々にアピールする必要がなく、自分自身のスキルを高めることに専念できるところにあります。分からないところは分からない、予想通りになっても予想とはずれても、運があるので仕方ない。そうしたより知的に誠実な姿勢でいたいものです。