不老不死とどんなものでも作れる力があったらいったい何をするか? こんな極端なシチュエーションは現実には存在しないけど、そんな境遇になってしまった主人公を扱ったSF小説があります*1。
死んでしまった主人公の科学者、ボブは宇宙船のコンピューターの中で目を覚まします。他星系の調査を目的として開発されたその宇宙船は、飛行能力だけでなく、材料さえあればなんでも作り出せるナノアセンブリ工場も備えていたのでした。
肉体は失ったものの、コンピューターの中の意識という無限の命と、ナノアセンブリ工場による無限の生産能力を手に入れたボブは、どのようにその後の人生を過ごすのでしょうか?
主人公のボブは、自らのコピーを作り、以下のことを進めます。
- より良い環境を求めての科学技術の研究
- 仇敵との、生き延びるための戦闘
- 地球の探索と生き残った人類の救出
- 新たな惑星の探索
- 新たな惑星で見つかった知的異生物の研究
これはセミリタイア、アーリーリタイア人が、まさに取り組むべきことにそっくりなのでは? と思うのです。
学習と研究、世のためになる事業やボランティア、未知の場所の旅行と探索。単に生きる、ということから開放されたら、人はどんなことをしたいのか?という疑問に対する一つの答えがここにあります。
また、主人公のボブは、自らのコピーを作る形で、子孫(というか兄弟?)を増やしていくのですが、これは家族を作って繁栄させたい、という欲望に一致しているのでしょう。
「生き残った人類の救済」というのは、いわば社会貢献ですね。世の中の人のためになりたい。ただし、名声を求める行動が往々にしてうまくいかず、逆に罵りを受けたりするように、ボブの行動もジレンマの連続だったりします。
富というのは不思議なもので、あればあるだけ使えるように見えて、いざ使ってみると思ったほど楽しくないということがあります。例えば、就職して1000円のランチをちゅうちょなく食べられるようになったとき、うれしくていろんなランチを食べまくりました。さらに、昇進して1500円のランチに迷うことなくなったときも、けっこう食べてみたものです。ただ、そんなランチが続くと、別にそれを続けたいとも思わなくなってくるんですね。
結局、牛丼屋で450円のランチを食べたり、390円のコンビニ弁当を美味しく感じたりします。さらには、家からお弁当を作ってもっていこうかな? と思ったり。お金がなくて安いランチを食べるのではなく、2000円のランチを食べるお金があっても、450円のランチでいいや、と思うときがくるのだと思います。
さまざまなレジャーや服や車も似ています。いったんハマって高いものを買ってみても、あるとき「こんなものか」と思ったり、「これで十分だ」と感じます。もちろん世の中には、趣味として高級車を何台も買う人もいますから、誰もがぼくのように感じるわけではないんでしょうけど。
そういう買い物に際限なく続く上昇志向がない一方で、知的好奇心は下がることがありません。知れば知るほどさらに謎が生まれてくるし、何かを理解したと感じたときの喜びは、少なくとも買い物とは比較になりません。
このSF「我らはレギオン」でも、主人公が時間を費やすのは、別の知的生物の研究や新たなフロンティアの発見、新たなVR環境の構築など自分自身のアップグレード、そして攻撃してくる仇敵との戦闘対策です。自分自身に当てはめてみると、投資や経済などの研究や、まだ見つかっていない未知のフロンティアを探すこと、スポーツなどへ打ち込むこと、とかになるのでしょうか。
*1:ちょうど先日、最終巻にあたる第3巻が発売になりました。われらはレギオン 3: 太陽系最終大戦 (ハヤカワ文庫SF) 一気読み間違いなしなので、秋の夜長にどうぞ