FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で自由主義者、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

ビジネスマンであるより職業人でありたい 書評『波瀾の時代の幸福論』

もともとはビジネスバリバリの現場でしのぎを削っていた身ではありますが、FIREして少し身を引いてから、企業とかビジネスの在り方について、多少考えるようになりました。そこで感じたのは、世の中「儲かるかどうか」だけで動く人が増えたよね、ということです。

思い出した、バンガード創始者ボーグルの言葉

投資家なら「儲かるかどうか」で判断すればいいだろ? と思うかもしれません。いや、そこにはちょっとややこしい話があるのです。解きほぐしていくので、少々お待ちを。

 

これを考える上で、ぼくが思い出したのが世界的に有名な運用会社バンガードの創始者であるジョン・C・ボーグルの著書です。

彼は本書の中でこう言っています。

数字の形で示される多彩なものさしが登場した結果、厳格な伝統的価値観は柔軟な現代的価値観にとって代わられた

「数字の形で示される多彩なものさし」とは利益そのものであったり、利益に連鎖的につながるビジネス上のKPIを指します。近代マネジメントは、これまで曖昧だった事業のKPIを数字で計れるようにして、分業した各人がKPIの向上を突き詰めることで発展してきました。

 

でも、その結果、ビジネスにおける「伝統的価値観」は次第に失われていきました。

「職業人」(プロフェッショナル)の集団として成り立っていた組織が「ビジネス」を行う事業体へと次第に変化しているのだ。

さてさて。この「伝統的価値観」とは何でしょうか。これは次のようなことを指します。

  • 広くは社会全体の幸福に対する責任、具体的には依頼人の利益に対する責任を負う
  • 理論や特別な知識が蓄積される
  • 専門に応じた特殊技能をもち、それを使って独自の成果をあげる
  • 倫理性があいまいな状況でも、高潔な決断を下せる高い能力をもつ
  • 個人または集団として経験から知識を得るための体系的な手段をもち、仕事を通じて新たな知識を蓄える
  • 専門分野のコミュニティを組織して、実際の仕事の質と専門教育の質とを管理する

医師、弁護士、教師、エンジニア、建築家、会計士など。さらにいえば、ジャーナリスト、管財人などが持っている(はずの)価値観が、それです。

 

実は、こうしたプロフェッショナルな価値観は、ビジネスの価値観とは必ずしも合致しません。医師が一番わかりやすいでしょうか? 医者には「どれが一番儲かるか?」ではなく「どれが最も病気を治せるか?」という価値観で顧客に向き合って欲しいと思うでしょう。そして、儲かる手法=有効な治療法とは限らないことも、みんな理解しています。

 

医師の「ヒポクラテスの誓い」のように、こうしたプロフェッショナルと呼ばれる人たちは、金儲け=ビジネスよりも重視する価値観を持っていて、それをないがしろにしてまで金儲けに走る人は邪道と呼ばれたものでした。ところが、各業界でその価値観が失われてきています。

 

職業倫理に従うよりも、少しでも儲けるやり方をするほうが正しい、というわけです。

最も職業倫理から外れた金融業

そしてボーグルがその最たるものだとして挙げるのが、自身が所属するコミュニティでもある金融業でした。

伝統的価値観を破壊しているものの代表格が、私が人生を捧げてきたファンド業界をはじめとする金融サービス産業のようだ。

 

日本でも、回転売買やリスクを正しく説明しない商品販売、要するに自らの利益のために顧客を犠牲にするようなビジネスが、証券にとどまらず銀行でも行われてきました。直近では仕組債(EB債)に金融庁が待った!をかけたのが有名な例です。

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特に金融業は、顧客に奉仕するという職業倫理を外れ、顧客から搾取するのが当たり前になってしまったとボーグルは言います。

ハーバード・ビジネススクールのラケシュ・クラーナ教授は、職業人としてとるべき本来の行動は、「社会のために価値を創造し、社会から価値を奪わないこと」だと定義している。

金融業界は事業会社が生み出したリターンから価値を奪い、みずからの商業的利益を最大にしていく過程で、専門性を発揮するものとしての使命を見失ったようだ。

 

金融業が重要な役割を果たしていることは間違いありません。ただし、

  1. 資金を用意する人 (=投資家)
  2. 資金の融通を手伝う人 (=金融)
  3. その資金でモノやサービスを生み出す人(=職人)
  4. そのモノやサービスを顧客に届ける人 (=商人)

という区分けで世の中のビジネスを区分けすると、この中で金融が最も儲けていて、次が商人だというのは何かが誤っていると、ぼくは思います。モノを生み出す人が最高だとは言いませんが、ほかの役割が過大評価されている。特に金融は……と思うわけです。

 

なんといっても、金融は自分たちで実際にお金=リスクマネーを用意するわけではありません。その融通をするだけなのです。にもかかわらず、最も多くの利益を掠め取っていくのです。

オーナー資本主義からマネジャー資本主義へ

本来の資本主義の在り方でいえば、リスクマネーを用意する投資家は欠かせない重要な存在です。ところが、本来投資家の利益となるべきものの多くが、中間に入った金融業者に掠め取られていっています。

資本主義の構造そのものが蝕まれるようになった。資本主義を機能させるものとして、企業の株主が直接的な役割を失っていった。

とボーグルは書きます。

 

ここにはもう一つ、企業のマネージャーの発展があります。本来株主が企業運営を委託した存在が経営陣です。ところが、経営陣はテクノクラートとして存在感を増し、株主をないがしろにして自らの利益のために行動するようになりました。日本はそうでもありませんが、米国のCEOの巨額報酬を見ると、果たしてこれは正当な報酬なのか? と考えざるを得ません。

 

ではなぜこんなことが起きたのか。実は全米の全社の全株式で、個人投資家が所有する株の比率は、1950年から現在までの間に、92%から26%に激減したそうです。逆に、機関投資家が保有する比率は8%から74%に急増しました。

 

そして”物言わぬ”株主である機関投資家は、株主として経営陣を監視し監督するという義務を果たさず、いわば経営陣の言うがままとなってしまったのです。日本でいう株式持ち合いの時代のようですね。株主から委任されたはずの存在なのに、株主を軽視して、企業を私物化する経営陣というのが今や普通になったわけです。

 

これをボーグルは「オーナー資本主義からマネジャー資本主義への変化」だといいます。機関投資家も、企業のCEOも、株主の利益ではなく自分たちの利益を優先させてきたというわけです。

本当の意味での株主の利益とは

ここで株主の利益とは何か? を考えると、冒頭の話に戻ります。短期的に利益を絞り出すような経営は、一見高効率なように見えますが、長期的には企業の価値を毀損します。

 

いわば日本の金融機関が長い時間をかけてたどってきた道でもあります。顧客からの信頼を得て、顧客のために奉仕するのが本来の金融機関の在り方でしょう。ところが、対面証券会社はもちろん、最近は銀行でさえ、顧客を食い物にするのが当たり前だと思っています。顧客もバカではないので、金融機関と付き合うのは損するだけだということを悟りつつあります。

 

このままでは、金融機関は顧客の真のパートナーにはなれませんし、いずれ残った顧客も去っていくでしょう。

企業統治に責任をもつということの意味が、企業自体の価値を高めることではなく、株価を上げることに取って代わられたのだ。

ビジネスマンであるより職業人(=プロフェッショナル)でありたい

ぼくはしばらくビジネスマンとして、いかに利益を出すかに執着して事業に携わってきましたが、そこには常に葛藤がありました。というのも、出自が職業人(=プロフェッショナル)だったからです。

 

職業人としての倫理観は、ビジネスの前にはあっけなく葬られることも多々あります。苦境の今だけは見て見ぬ振りを……ということにならざるを得なかったこともあります。しかしそれは、職業人としては大いなる敗北でしょう。

 

そんなわけで、FIREしたあとの今は、ビジネスマンとして生きたいとは全く思えません。思う存分に職業人としての倫理観を大事にして日々を過ごしたいと思うわけです。