先日、いまの収入だと生活が成り立たないからもっと給料(報酬)をアップしてくれないものか……という話を聞きました。話をきいてみると、確かにたいへん。これはそのジャンルでトップレベルになっても生活が成り立たない金額です。でもこのロジックってどこかで聞いたなぁと。
給与は生活に必要な金額で決まる
給料の額がどうやって決まるかというと、「生活に必要な額が基本になる」と言ったのはマルクスです。カツカツでもなんとか生活していけて、明日の労働に必要な食事と休息を得られること。そして子供を生んで育てて次代の労働者を育成できること。労働者としての能力アップのために必要な勉強ができること。
これが、マルクスが考えた「労働者の給料の決まり方」でした。
だからこそ、優秀で他の人の何倍ものアウトプットを出したとしても、給料はそれに比例しないのです。逆に、その仕事で生活できるレベルの給料が出せないようだったら、社内で異動があるはずです。それでも生活できないレベルの給料だったら、その人は転職するでしょう。転職できないようなブラックな社風だったり、社会として流動性が確保されているかは大事ですが。
生活できない報酬レベルならジャンルを変える
しかし給料がもらえる会社員はともかく、自分で事業をしている場合はそうはいきません。顧客は、「生活が成り立つ額」なんて意識しないからです。あくまで、自社のビジネスにとってどのくらいのメリットがあるかで金額を決めます。発注するもしないも自由です。いわゆる市場価格です。
もし生活が成り立たない額しかもらえないなら、市場価格が低下しているということです。市場価格を上げるような工夫をするか、異なる市場に進出するかを考えるしかありません。
ただ法人対法人ならそのとおりなのですが、個人事業主の場合など、こういう発想ができる人はほとんどいません。個人事業主の場合はある程度スキルが固まっている人が多いので、ジャンルを変えようといっても難しいのが実情ですし。
報酬が満たないと、不正や倫理にもとる行動が起きるのか?
こうした報酬額の多寡の議論について回るのが、「報酬が安いと不正を働いたり、倫理にもとる行動を取るようになる」という話です。だから、ある程度の報酬は保証すべきだとつながるわけですが、これは本当でしょうか?
曰く、「顧客のお金を預かる銀行員は、不正を働かなくてもいいように高年収」とかがよくいわれますね。
しかし、いくつか調べた限りでは、報酬が高いほど不正が減るという調査や実験は見つけられませんでした。一方で、まさにいま話題のゴーン氏の不正は、これだけの報酬を得ていても不正をするんだな、と思う内容です。少なくとも、報酬が高い人のほうが品行方正なわけではなさそうです。
生活に困窮するようになると、些細な不正をやってしまう。このロジックは、お腹が空いたからパンを盗んだに近いですね。でも、だから不正をしないように報酬を上げろとはならないんじゃないかと思います。
利益の出ない活動は政府が支援すべきなのか?
過去からの事業が、社会の構造変化にともなって利益が出ないようになることはよくあります。そのとき、内部から出てくるのは「俺たちの活動は文化だ。国なりがお金を出して支えるべきだ」というリクツです。
ところが、過去に文化を支えてきたのは国ではありません。メディチ家が支えたルネサンス期の芸術のように、文化というのは一部のお金持ちが趣味で支えるものです。国が支えるためには政治的に認められなければならず、それは国民の多くが賛同するものでなければなりません。
別に衆愚政治だといいたいわけではありませんが、国民の多くが賛同する活動だが、国民の多くはそれにカネを払う価値を認めていない、というのが「利益は出ないけど国が支えるべきだ」と主張する事業です。いろいろと矛盾があります。
利益按分なのか必要生活費なのか
結局のところ、「あなたに利益を提供するからおカネをください」というのか、「このままだとやっていけないからおカネをください」というのかです。後者は、哀れんでもらってお金を乞うているということです。
でもこの気持もわかるんですね。何しろマルクスのいうように、給料自体は「提供できる利益」ではなく「生活できるだけの金額」で決まるのですから。
さらに、ベーシックインカムの議論などでは、改めて「生活できるだけの金額」を、全員がもらう権利があるよね、という感じになります。利益云々は全く関係ないと。ここまで書いてきて、どちらがロジカルに正しいのか、自分でもよく分からなくなってきました。コメントなどいただければ幸いです。