先日、下記の記事がバズっていました。日本人にとって、もう買いたいモノはなくなってしまっていて、だから10万円給付しても「使わずに貯蓄」されてしまうという話です。
その理由について、いろいろと考察した後で、「どうすれば人々の消費意欲を伸ばせるのか」という案を書いています。でも、そもそもどうして消費意欲を伸ばさなければいけないのでしょう?
GDPは幸せ指標ではないし人生の目的でもない
資本主義国家では、政府には国ごとの成績表があります。それはGDPです。1人あたりGDPが高い方が豊かな国ということになっているし、GDP成長率はなんとかして高めるべきで、GDPが伸びない国というのは、国際的に衰退していく国だということになっています。
だから政策の目的としてGDPを伸ばすことは外せず、そのためには「消費意欲を伸ばさなければいけない」ことになるのです。
でも、GDPは人々の幸福の一面でしかないこともまた事実です。GDPは人々の幸福を測る指標の1つだったのに、それ自体を伸ばすことが目的化していて、「買いたいモノがない」といっているのに、GDPを伸ばすために「消費意欲を伸ばさなければいけない」ってことになっています。極めて本末転倒です。
本当に買いたいモノがないのか?
買いたいモノがなくなった背景には、いろいろなことが言われます。
- 最低限の暮らしが比較的安価で実現できるようになった
- 無料ネットサービスが普及し、お金がかからなくなった
- 過剰消費による「ステータス」概念が崩壊した
- 安価で品質のよいものが普及した
もしこれらが本当なら、こと日本においては豊かな暮らしは実現しており、さらによい生活を求めてあくせく働く必要もないということを意味しています。これは「買いたいモノがない」という幸せだといえるのでしょう。
一方で、買いたい「モノ」はなくても「サービス」はある——という見方もできます。従来は所有が重要でしたが、現在はサービスの時代です。持たなくてもサービスとして効能だけを享受できるように変わってきました。
- クルマを所有するのではなくカーシェア
- CDを所有するのではなく音楽サブスク
- 本を所有するのではなく有料コンテンツ
- ゲームを所有するのではなく、無料の課金ゲーム
そして、そもそもがサービスであるもの——旅行とかイベントとか外食とかが、モノを買うよりもブームだったりもします*1。
問題は、際限なく高い値段が付く「モノの所有」に比べて、サービスは上限価格がざっくり決まってしまうところにあるでしょう。サービスを受ける価格は、1時間あたり5000くらいが相場。高くてもまぁ2万円です。これを超えるものは、なくはありませんが、なかなかメインストリームにはなっていません*2。見栄消費でもない限り、なかなかこのレベル感を超える消費は成り立たなかったりします。
将来に不安があるから買えない説
一方で、「買いたいモノがない」のではなく、あるけれど将来が不安だから買えないという説もあります。この場合、将来、つまりは老後の生活のために消費しないで貯蓄したり投資したりしているということでしょう。
昨今の投資家の多くは、一発儲けたいというものではなく、日々節約して浮いたお金で投資し、豊かな老後を送りたい、または早期に引退したい=FIRE ということなので、将来不安のためにお金を使っていないともいえます。
ただ、じゃあお金を使わないことが、心底辛くて苦しいものかというと、実はそうでもない。お金に余裕があれば欲しいもの——はあるにはあるけど、買えないと本当に困るかというとそうでもなかったりするのが実情ではないでしょうか。
もちろんすべての人を十把一絡げに論じることはできません。ただ、元記事がそうであるように、メインストリームの人たちが「買いたいモノがない」と言っているのは確かでしょう。ぼく自身もそうですし、ぼくの周りの人に聞いても、「アレがほしい!」と言っている人はいません。みんな買おうと思えば買えるけど、敢えて買うまでもないくらいのスタンスなのです。
老後不安をどう捉えるかという問題はあるにせよ、(どうしても)欲しいものはたいてい手に入れてしまったなんて、現代の日本人はなかなか良い時代に生きているものです。金儲けしてやる!のし上がってやる!というようなハングリー精神は確かに失われてきているのかもしれませんが、カネに振り回される生き方から脱却できているのだとしたら、とても幸せではないでしょうか。