最近、インタビューなどを受けるときに「プロフにある、リバタリアンって何ですか?」と聞かれることが増えました。あぁ確かにリバタリアンってちょっと耳慣れない言葉ですよね。
究極の自由主義者
リバタリアンの定義はいろいろありますが、ぼくが一番しっくり来ているのは「究極の自由主義者」という表現です。人にとって重要なものはさまざまありますが、その中でも最も重要なのが自由だという考え方です。
自由というのは、自分自身と持っているものについて、自分の思った通り自由にできるという意味。ただしほかの人に迷惑をかけてはいけません。
この自由をよくよく考えると、LGBTQとか男女差別とか、その人がほかの人と違うからといって差別するようなことは決して許されるものではありません。自分の特性によって差別されたくないように、他の人の特性によって差別があるのは自由ではありません。
いわゆる、人権大事にってやつです。ちなみに「世界人権宣言」というのがあって、これはとっても素晴らしい文章なので、ぜひご一読ください。ここに書かれていることに反対する人はよもやいないと思いますが、今の世界がそうなっていないということも、文として読むとよく分かります。
経済的自由主義
人権を守り自由と平等を大事にするって考え方は、世間ではリベラルと呼ばれます。米国でいえば民主党であり、日本でいえば伝統的に野党の考え方です。そしてリベラル政党の多くは、人権重視とセットで大きな政府も志向します。お金持ちから税金を取って貧しい人に配るという、再分配を是とする考え方です。
でもリバタリアンはこれに反対します。税金というのは、その人の財産を強制的に奪うものであって、その人の自由を侵害しているからです。
すべての税金を否定するわけではありませんが、富の再分配のための税金には完全反対。できる限り税金は少ないほうが望ましいというのが、リバタリアンの基本的な考え方です。合わせて、補助金にも反対です。バラマキはもちろん、政府がなんらかの意図をもって配るお金はすべて、市場を歪めます。
そう、リバタリアンは市場万能主義なんて揶揄されることもありますが、少なくとも市場の失敗よりも政府の失敗のほうが多いという立場です。市場よりも政府のほうが、何に投資すべきか、何を国民は求めているのかを知っていると思っているなら、それは驕りです。それを計画経済、社会主義といいます。
政府は市場が問題なく機能するように、ルールを整え、ルールからの逸脱を取り締まる。そういう役割に徹するべきで、どんな産業を伸ばすべきか、などを政府が考えるべきではありません。
政府は何をすべきなのか?
経済性政策を政府がしないなら、いったい政府は何をすべきなのでしょうか。実はリバタリアンの中にもここはグラデーションがあって、「政府なんて全くいらない」という無政府主義(アナーキズム)という極論から、安全保障や治安維持だけを担う夜警国家が望ましいという最小国家主義、そして少なくとも民間で提供できるものについては政府の関与をなくすべきだという小さな政府までさまざまです。
安全保障や治安維持というのは、いわゆる軍隊や警察です。民間警備会社などは存在するものの、さすがにこれは政府が担うべきだと多くのリバタリアンは考えています。
続いて、立法と司法はどうでしょうか? 民間の裁判所にあたる裁判外紛争解決手続(ADR)などを用いることで、司法も政府の手から離せると考えるリバタリアンもいますが、こうしたルール作りや実行は政府がやるべきだと思います。
つまり、防衛省、法務省、国家公安委員会(警察庁)、消防庁、海上保安庁あたりは、多くのリバタリアンが存在意義を認めるのではないかと思います。またクラウゼヴィッツが「戦争は外交の延長である」というように、外務省もここに加えてしかるべきでしょう。
しかし、これ以外の省庁はリバタリアンからすると存在意義を疑うものもたくさんあります。税金を集めるのが仕事の財務省はもちろん、次を仕事として挙げている経済産業省は、反リバタリアニズムな省庁でしょう。
経済産業省の仕事:
国内産業の強化・発展の促進、変化する国際情勢における取引の安全強化及び輸出促進、新たな価値観・新たな産業の創出促進、中小企業・地域経済への支援、地球環境を守る持続的なエネルギー政策、資源・材料・製品・情報などの安全強化
文部科学省についてもリバタリアンは疑います。国家は国民の安全と権利を守るための一機能であって、国民がどうあるべきかを決める機関ではないからです。国民に特定の思想を強制する公立学校は、あまりリバタリアンが評価するものではありません。
このように、国防や警察、消防といった国でしかできない仕事と、ルールづくりとルールの執行は国がやるべきですが、それ以外の民間ができることは全部民間に任せるべきだというのがリバタリアンの考え方です。
社会主義国家化する日本
もともと日本は、資本主義陣営の中にありながら社会主義的国家だといわれてきました。ジャパンアズナンバーワンと言われるようになった経済成長は、旧通産省の指導のもとで成し遂げたと喧伝され、護送船団方式などと呼ばれた金融も含め、政府が企画立案し、実働部隊が民間という流れが長く続いたのです。
一方で、結局そうした産業は世界で競争力を持ち得ませんでした。結局、世界で評価されたのは、自動車やアニメ、漫画など、政府がなんら口を出さなかった分野ばかりです。ぼくは長らく、規制の少ない領域で仕事をしてきましたが、日本の基幹産業といわれるようないわゆるJTCの分野の話を聞くと、規制規制で役所が大きな顔をしているところばっかりだというのが本当に意外でした。
そして小泉政権あたりから始まった規制緩和、構造改革は、方向性としては小さな政府を目指すものだったと思っています。ところが、所得に対する公的負担の比率を表す国民負担率を見ると、一貫して上昇しています。
健康保険や国民年金といった社会保障費が上昇してきたのは思った通りですが、租税負担も2010年から大きく増加してるのです。租税負担は直近過去最高レベルで、社会保障費と合わせると国民負担率は48.1%まで上昇しています。つまり、稼いだお金の48%は国に持っていかれるということです。
これを「仕方ない」と考える人も少なからずいるでしょう。つまり増税やむなしという考え方です。でも、民間にできることを国はするべきではなく、支出をできる限り減らして小さな政府を目指し、増税も国債発行も避けるという選択肢だってあるのです。
日本ではこうした考えの人は少なく、「増税は嫌だけど、国はあれもやれ、これもやれ」という人がけっこういます。すべての問題は国が解決すべきだくらいの勢いです。
でもリバタリアンとしてはこう言いたい。国は最小限のことだけをやってください。そして税金を増やすのもやめてください。資本主義を成り立たせるための、フェアなルールづくりとその執行は重要ですが、国民がどっちに向かうべきかを政府が決めないでください。それは、国民一人ひとりが自分で考えて選ぶものです、と。
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