リタイアすると、会社員などのくびきから自由になります。これまで会社が規定していたもろもろからも離れ、自分で自分の人生をデザインできるようになるわけです。でも、このときにどう生きるかは、意外と幅があるものです。
人に必要とされて生きるほうが幸せか
きっかけは、誰かのリポストによって流れてきた大江さんのこのポストです。
投資で資産を作ってアーリーリタイアし、好きなことをして暮らしたいと思ってる人は多いけど、実際にリタイアしたらそんなに楽しいものじゃないよ。人は自分の好きなことをして暮らすよりも、人に必要とされて生きる方がずっと幸せなんだよね。それはリタイアしたらわかるから。
— 大江英樹 (@officelibertas) 2019年3月24日
大江さんは著名な経済コラムニストで、マネーリテラシーの向上に尽くしてきた方です。2024年の年明け早々に、71歳で逝去されました。
このポストに対して、ぼくがリポストしたのが下記です。
ぼくの実感値としては逆で、
— セミリタイア九条 🌐📈☀ (@kuzyofire) 2024年1月22日
人に必要とされるのも承認欲求満たされて良いんだけど、人に振り回される生き方になりがち
自分の好きなこと、やりたいことを軸にしたほうが、健やかに毎日を過ごせるなぁ
まぁ人による。 https://t.co/0YirvgMhaf
この2つの考えに、どちらが正しい、どちらが誤っているというのはないでしょう。これは考え方の違いだからです。ただ、なぜ大江さんがこのように考えたのか? それをもう少し深掘りしてみると、根本にある考え方の違いが見えるような気がしました。
『お金の賢い減らし方』で大江さんが語ったこと
そういえばと思って大江さんで検索してみたら、僕も(少なくとも)一冊本を読んでいました。『お金の賢い減らし方』とい1年弱前に出された本です。
この中で、大江さんはFIREブームについて考察しています。
日本でのFIERのブームの背景には、「まず、早く今の仕事を辞めたい、そのためにお金をたくさんこしらえておきたい」という考えがあるようです。すなわち「経済的な自立を指す”FI”よりも「早く引退すること」を表す”RE”のほうに重点が置かれているようなのです。
なるほど、サイドFIREとかバリスタFIREとか、つまりFIには至っていないけどある程度の資産があればREは可能だよね、という考え方がこれなのでしょう。FIには至っていないけど、会社員を辞めて副業で十分食べていけるよね、という方もこのタイプのFIREのように見受けられます。
大江さんはREがメインのFIRE人が日本に多い理由を、次のように分析しています。要するに、本当は脱サラして起業したいけど、それは怖いので、数千万円くらい資産があれば、それがサラリーマン卒業のサポートになる。それが日本版FIREではないかというのです。
本来、日本人のDNAの中には「勤労が美徳」という感覚が擦り込まれています。
(略)
にもかかわらず、なぜFIREがブームになるのか、それも”FI”ではなく”RE”が主たる目的のように見える人が多いのはなぜでしょうか。
(略)
その原因をズバリ言えば、今やっている仕事に対する閉塞感があるからではないかと思います。
(略)
もちろん中には、非常に強い意欲を持ち、企業を飛び出し、独立して起業する人もいます。しかしながら、そこまでリスクを取って思い切ったことができる人はごく少数なので、多くの人は早く儲けて会社を辞めたいと考え、FIREに憧れることになります。
とはいえ、大江さんはこうしたREメインのFIREを切って捨てます。
FIREで大事なのは最初の”FI”、すなわち経済的自立であり、仕事が嫌だから早く辞めたいという後ろ向きな考え方ではありません。経済的な自立を可能にすることで、今後の生き方の選択肢が増えるというが本来の意義です。
なるほど、REではなくFIだと。これは僕も同感です。何が正しいFIREなのかは脇において、REなきFIはあり得ても、FIなきREは単なる退職なのです。どちらが優先事項なのかといえば、やはりFIだとぼくは思います。
サラリーマンでありながら数億の資産を持った人に、大江さんも何度もインタビューしてきたといいます。そうした人は、現在のところ今の仕事に不満はないけど、将来、不本意な仕事をやらされるようになれば、いつでも辞められるオプションを持っているわけです。
つまり彼らの場合は「お金を増やす」こと自体が目的になっているのではなく、人生において、選択肢を広く持てるようにするための手段の1つとして、資産形成をしているということにすぎないのです。
これは言い方を変えれば、人生で一番大事なことは「自由」だという人生観であり、お金を持っていればいつでも自由にふるまえる、ということを表しています。
ここにぼくは膝を打ちました。まさにこの通り。人生で一番重要なのは自由であり、それを実現するのに最も簡単で、かつ自由のベースになるのが資産なわけです。
ところが、REよりFI、FIは自由のため――という論を展開しておきながら、これに対しても大江さんはダメ出しするのです。
私は少なくとも、人生においては「お金が第一で、何よりも優先するものだ」という考え方は間違っていると思います。あくまで自分のやりたいことを実現するために、お金を増やすということなのです。
んー。どこにも「お金が第一で、何よりも優先するものだ」なんて話は出てなくて、自由はお金があれば手に入りやすいよね、という話だったはずなのに、突如”汚いお金”論みたいな話が出てきて、ちょっとこの部分の論旨は僕にはよく読み解けませんでした。この章のタイトルが「FIREに憧れるという勘違い」というものなので、そもそも何かしら否定したかったのかな? と思ったくらいです。
自分の人生をどう動機付けるか
さてFIRE論はさておくとして、冒頭の「人に必要とされて生きるほうが幸せか、好きなことをして暮らす方が幸せか」という問題は、ぼくは自分の人生をどう動機付けるかという問題だと思っています。
端的にいえば「あなたは何のために生きていますか?」という問いです。この誰しもが青年期に悩んだであろう青臭い問いは、大抵の場合、周囲が敷いたレールに乗って進学、就職、会社員……と進む中で消えていきます。なぜかというと「人に必要とされて生きる」ほうが簡単だからです。
会社の評価制度を見ればよくわかります。人は給与のためだけに働くにあらず。会社や上司から成果を求められ、つまり必要とされて頑張るのです。そして成果を出せば、上司や同僚が認めてくれ、ついでにボーナスもちょっと増えたりします。周囲の期待に応えることも重要です。周囲に必要とされて頑張っている人は、誰しもが評価しますね。上司が評価しなくても、ドラマの主人公になるのはだいたいそういう人です。
このように人に必要とされて生きるのは簡単に幸せになれるものです。会社に必要とされるだけでなく、家族に必要とされて「子供のためにがんばっています!」というバリエーションもありますね。
ただこうした「人に必要とされて生きる」には自分を求めてくれる相手が必要です。そしてリタイアすると、こうした相手は極端に減ってしまうのです。リタイアすれば、成果を期待して褒めてくれる上司はもういません。助け合って感謝してくれる同僚もいません。子供たちが小さいうちはいいでしょうが、巣立っていったあとにはリタイア済みのあなたを必要とする人はもういないかもしれません。
こうした事実が、冒頭の大江さんの発言に繋がっているもではないか? ぼくはそんなふうに感じています。
そして「人に必要とされて生きる」には、リタイア後も何らかの仕事を探すことになります。ぼくも細々とフリーランスとして仕事をしているので分かりますが、仕事を受けるというのは最も簡単な「人に必要とされて生きる」方法なのです。
ただ一方で、別の生き方もあります。自分の人生を自分で駆動する方法です。それが冒頭でぼくがポストした「自分の好きなこと、やりたいことを軸にしたほうが、健やかに毎日を過ごせる」というものです。
「人に必要とされて生きる」場合、人生を評価するのは他人になります。他人が喜んでくれればいい人生、感謝されればいい人生。これは一般的な価値感だし決して悪いことではないのですが、他人の思いに振り回されるということでもあります。
一方自分の内なる衝動に従って生きる場合、その人生を評価するのは自分になります。例えば、何日も山にこもって登山する人のことを考えてみましょう。この人はなぜ山に登るのか? これは誰かに必要とされて登っているのではありません。ありきたりな言葉になりますが、そこに山があるから登るのです。
座禅を組んで修行する僧侶のことを考えてみましょう。彼は誰かに必要とされて修行をしているわけではありません。自分が決めた評価軸にそって、自分がなすべきことをしているだけです。何が必要で、何を行うべきかは、他人が決めるのではなく自分自身の中にある。こんな生き方が、リタイア後の人生においては重要なんじゃないか。そんなふうに思うのです。