FIRE: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIREを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

FIRE否定派のロジックに反論してみた

一時期ほどのブームは去ったとはいえ、一定人口に膾炙したFIREという言葉。FIREへの憧れを訴えるコンテンツも多い一方で、「FIERなんてするもんじゃない」という論説も尽きることがありません。

 

今回、元日経新聞編集委員の高井宏章氏が、“FIREで幸せ”の拭えない違和感「危なっかしい」と否定していたので、そのロジックを見つつ反論してみます。

FIER否定のロジック勢ぞろい

高井氏がFIREを否定するロジックを、記事から抜き出して一覧にすると次のようになります。

  • そこそこ高いリターンとカツカツの生活費を前提にしたマネープランは破綻する
  • FIRE失敗時に現役復帰は難しい
  • FIREのための節約生活は豊かな生き方ではない
  • 仕事の目標が「早期リタイア」だと、仕事が「仮の姿」になってしまう
  • 収入を他人の労働に頼る生き方は自立と呼べない

これらはFIRE否定派の人たちが並べるロジックの、見事な一覧になっていると思います。それぞれに対して、FIRE肯定派の立場から反論を試みてみましょう。

diamond.jp

マネープランの破綻とFIRE失敗について

まず「そこそこ高いリターンとカツカツの生活費を前提にしたマネープランは破綻する」「FIRE失敗時に現役復帰は難しい」の2つについて。

 

これは実はFIREを否定しているのではなく、FIRE計画の未熟さを指摘したものです。FIREの良し悪しに関係なく、甘い計画は破綻するのは当たり前です。いわば「1日1時間CDを聞くだけで英語が話せるようになります」というプランはうまくいかないから「英語が話せるようになるのは意味がない」というようなもの。

 

安易なFIREは、失敗すると悲惨になることをちゃんと理解しておこうという警鐘としては意味があるでしょうが、まるでFIRE自体を否定するような文脈にするのは意図的なミスリードのように感じます。

FIREのための節約生活は豊かな生き方ではない?

「FIREのための節約生活は豊かな生き方ではない」はさまざまなFIREのカタチの中で、節約節制型のFIREを指して否定しています。別に、日々の生活でお金を使わないからといって、そういった生き方が貧しいと断ずるのは、それこそ想像力の欠如です。

 

実際に節約節制生活を続けた人が、「これじゃ人生よろしくない」と反省したのならともかく、平均年収が1220万円にもなる日経新聞の出身者が、「お金を使わないと人生は豊かでない」と説いても、そこに説得力はあるでしょうか。

仕事の目標はいったいなにか?

「仕事の目標が「早期リタイア」だと、仕事が「仮の姿」になってしまう」は、うまく書くことで一見説得力を持たせています。引用してみましょう。

キャリア形成の面でも違和感がある。真の目標を早期リタイアに置けば、仕事は引退資金を稼ぐための手段になってしまう。そんな心持ちは、何らかの形で漏れ出て、同僚や取引相手に伝わるだろう。人生の大事な時期を、自分にとっても周囲にとっても「仮の姿」として過ごすのは、私には幸福なあり方とは思えない。

高井氏は、新聞記者という仕事を社会的に意義のある重要な仕事だと考えて過ごしてきたのでしょう。そこには「仕事が嫌でたまらないがお金のために働いている」という人が世の中にはいるということは想像の範疇にありません。お金のことを意識せずに働ける高給取りのエリートのような考え方だと思います。

 

多かれ少なかれ、仕事というのはやりがいや社会への貢献といった要素と、報酬という要素がバランスしているものです。目標を早期リタイアに置くと報酬以外は何も気にしなくなるというのは極論でしょう。早期リタイアという目標に向けてお金を貯める目標を持つと同時に、自分の仕事にやりがいを持ちながら社会に貢献する喜びを噛み締めているものです。

経済的自立とは何か?

最後の「収入を他人の労働に頼る生き方は自立と呼べない」はどういう意味でしょうか。こちらも引用します。

「FIREは果たして経済的自立なのか」という疑問がわく。投資のリターンの源泉は、人々や企業が経済活動を通じて生む新たな富だ。FIREとは、元本=ストックは自分自身の物でも、フロー=収入は他人に頼る生き方だ。そのあり方が悪いと言いたいのではない。それは自立と呼べるのか、と問いたい。

なるほど、自分自身で働いて稼ぐのは自立だが、資本を元に収入を得るのは自立ではないと言っているわけです。僕からは3つの反論をしたいと思います。

 

まず資本主義の世の中にあって、投資家が資本を提供することの意味をどう捉えていますか? ということ。人々や企業が経済活動を通じて富を生むには労働者だけでは足りません。そこには資本が必要なのは、マルクス主義者でもなければ常識でしょう。

 

2つ目は、投資は本当に不労所得なのか? という点です。投資家はどこにどんな形で資本を提供するのが良いか、調査して考えて投資を行っています。これを「他人に頼る」などとあたかも不労所得のような言い方をしては、ファンドマネージャーなどの仕事もすべて否定することになってしまいます。投信に投資すれば、そんな判断を外部に委ねられる。それは不労所得ではないか? という反論には、経営者も優秀なCOOを雇えば、実務も判断も任せられる。それと何が違うのですか? と返したい。

 

そして3つ目は、そもそも経済的自立とは何かということです。僕の理解では経済的自立とは「他人や外部の支援に頼らず生計を立てる能力」を指します。自身が労働しようと資産からの収入であろうと、自分が所有する財や能力によって生きていけるのなら、それは経済的自立です。それをあたかも「労働以外は正しい収入のあり方ではない」と感じさせるような書き方をするのは、意図的なミスリードでしょう。

 

このように、ロジックを見ていくといろいろなところで破綻していて、文章のうまさで印象論操作をしている感が拭えません。日経新聞出身という高収入かつやりがいのある(と本人が思っている)仕事をずっとやってきた人間の奢りが出ている内容ではないでしょうか。

ポジションを取る

さて書いてみたら、なんか激しい批判文みたいになってしまったので、僕も自分のポジションを明確にしておきたいと思います。

 

まず楽観に基づいた甘いプランに基づいてFIREするのは、僕も反対です。株式は歴史的に平均6%程度のリターンをもたらしてきましたが、30年にもわたり停滞した時期もあります。FIRE後に、大恐慌とか日本のバブル崩壊のような長期低迷があっても大丈夫なプランを組み立てずにFIREしてはいけません。

 

FIREのために節約すると日々使えるお金は少なくなります。これを一概に貧しいとはいいませんが、若いうちのほうがお金の価値が大きくなるのも事実です。つまり、若いうちのほうがお金を使うことで、人生の満足度が高まるのです。そのため、個人的には過度に節制してまでFIREしたいとは思いません。

 

仕事の目標は金ではないというのは、ぼくは同意します。そしてだからこそ、さっさとFIREして、金のためではない仕事をすればいいというのが僕の考えです。

 

経済的自立については、労働の神聖性をぼくは認めていません。バートランド・ラッセルの次の言葉を贈って、この記事を締めたいと思います。

 勤労のモラルは奴隷のモラルである。そして、現代社会に奴隷は必要ない。 バートランド・ラッセル『怠惰称賛』

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