ミルトン・フリードマンといえば、一般的にはマネタリズムの主張者として有名です。しかし、自由をこの上なく愛すリバタリアン界隈では、新自由主義の精神的支柱ともいえる人物でもあります。
そのフリードマンの著書『資本主義と自由』から、自由主義の敵であるパターナリズムについて、まとめてみました。
- 作者: ミルトン・フリードマン,村井章子
- 出版社/メーカー: 日経BP
- 発売日: 2008/04/17
- メディア: 単行本
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- 政府は弱者の代わりに決断してあげるべきか? パターナリズム
- パターナリズムは不合理な規制につながる
- 「市民を守るため」という口実によって業界が作りだす登録制〜免許制
- 医者でさえ免許は不要とフリードマン
政府は弱者の代わりに決断してあげるべきか? パターナリズム
人は自分自身で決断する自由を持つというのが、自由主義の基本です。しかし、「場合によっては」他人が代わりに決断して上げたほうがいい場合があります。この「場合」がどの程度の広さなのかで、政治的な色合いが変わってきます。
フリードマンのような自由主義者にとっては、できる限り、政府は個人の活動に口を出すべきではないという立場です。それでも多くの場合、政府は口を出します。しかもそのとき、「温情的配慮」=パターナリズムという考え方に則って口を出すのです。
パターナリズムとは、父権主義とも呼ばれ、要は「強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう(Wikipedia)」を指します。
フリードマンはパターナリズムを次のように批判します。
政府が介入の理由に温情的配慮を持ち出すのは、多くの点で自由主義者にとってじつに好ましくない。政府が介入するのは、当事者に代わって別の誰かが決断することを是認しているからだが、自由主義者にとってこれは受け入れがたい考え方である。これは、反自由主義者すなわち共産主義者、社会主義者、福祉国家論者などに共通する考え方なのだ。
もちろん、病気や衰弱などで本人に決断能力がない場合や、子どもなどの場合、親などが代わって決断してあげることは、フリードマンも渋々ながら必要なこととしています。しかし、健全な成人に対して、「あなたの代わりに頭のいい政府が代わりに決断してあげます」ということに対しては、「反自由主義者」と切って捨てます。
パターナリズムは不合理な規制につながる
フリードマンは、こうしたパターナリズムが幅を効かせると、それを企業が利用してカルテルや独占を行い、自由主義的な経済活動が阻害されると主張します。例えば、米国の鉄道での規制の例です。
テキサス鉄道委員会は、鉄道とはなんの関係もない石油産出量の制限を実施している。資源保護と称して油井の稼働日数を規制しているのだが、実際の目的は価格のコントロールである。
環境規制は必要なものですが、それは特定の産業を支援したり締め付けるためであってはいけません。経済学者は、例えば地球温暖化防止であれば、炭素税のような仕組みを提唱します。個別の産業に「これはダメ」といちいち決めるのではなく、二酸化炭素排出を抑えることが目的なのだから、排出するのならその分カネを払えという仕組みです。いわば、カネを媒介にして、市場で最適な仕組みを作ろうというものです。
そうでないと、上記のテキサス鉄道委員会のように、環境保護や資源保護を隠れ蓑に、実質的なカルテルを結ぶようなことになりかねません。しかも、それを国の機関が推進しているのです。
政府による直接独占よりもはるかに急速に発達し、いまや重大な問題と化しているのは、民間企業が政府を利用してカルテルや独占を取り決め、実行していることである。
「市民を守るため」という口実によって業界が作りだす登録制〜免許制
同じようなパターンが、登録制や免許制です。
高い料金をとられたとか、何かひどい目に遭ったという市民が免許化を求めて議会に圧力をかけたという話はほとんど聞かない。実態はまったく逆で、免許化を求めて圧力をかけるのは、まずまちがいなく当の職業に就いている人たちなのだ。
言うまでもなく、登録制や免許制によって参入障壁を作り出し、既事業者のカルテルを作ろうというのが、これの目的です。言い分としては、消費者保護。でも実態はカルテル。
日本でも、例えば医薬品の販売や、理髪業界などに、同様の例を見ることができます。
ちなみに、登録制や免許制は次のようなもので、まずは登録制から始まり、それは徐々に免許制へと、参入障壁を高める方向に進みます。
- 登録制 何らかの職業につくにあたり、氏名の登録が義務付けられる制度
- 認定制 ある人がある技能を備えていることを政府機関が認定する制度
- 免許制 監督当局から免許を取得しないとその職業に就くことができない
これは言ってみれば、つぎのような話です。
三つの制度のどれを採用した場合でも明らかに発生する社会コストは、その職業に就いた集団が、それ以外の市民を犠牲にして独占に突き進む手段となり得ることである。
医者でさえ免許は不要とフリードマン
さすがにリバタリアンの精神的支柱だけあって、フリードマンは医者でさえ「免許は不要」と公言します。
彼らの言い分はこうだーーたいていの人は、自分の召使いすら賢く選べない。医者も配管工も理髪師も上手に選べない。たとえば、良い医者を見分けるには医学の心得がなければならないが、ほとんどの人はそうではないのだから、医者の選択にかけては無能力だ。したがって、無能力のせいで被害に遭わないよう政府が守ってやらなければいけない……
確かに医師免許を持っているということは、一定以上の医学を学んで来たことを意味しています。最低限の足切りはできているというわけです。一方で、トンデモな医者がたくさんいるのも事実です。さまざまな医療行為が認められるべきならば、ではなぜ医療を行うのに医師免許が必要なのでしょうか。
難病で大学病院にかかることを考えます。そのとき、医師免許を持っている人に診察してもらいたいのではなく、大学病院というピアレビューが働く場で評価された医師に診てほしいというのが願いです。極端な話、医師免許がなくても大学病院内で手術の腕前を認められている人なら、ぜひ診てもらいたいと思います。
よく日本医師会は政治圧力団体だと言われますが、海外でも医師免許というのは力量を保証するための制度ではなく、医師がカルテルを結んで料金を高止まりさせるためだということをはっきり言っていたりもするようです。
彼らは次のように言い訳する。曰く、同業者の数が増えすぎると収入が減る。すると「適正な」収入を確保するためには医療倫理にもとる診療行為もせざるを得ない。したがって医療倫理を維持するためには、医師という職業の価値と必要性に見合う所得水準を維持しなければならない……。これはまたひどくいかがわしい理屈だと言わざるを得ない。
医師を代表する立場の人が、お金をもらわないと倫理を守れないと公言してはばからないわけです。
投資においても、消費者保護の名目で、さまざまな規制があります。外貨預金や信用取引をする際には、リスクを測るための質問があって、それに回答して一定以上のスコアでないと取引できなかったりするわけですが、これってどのくらいの効果があるのでしょう。
少なくとも、消費者保護のために「登録制にすべきだ」「免許制にすべきだ」という言説は、眉にツバつけて聞きたいものです。多くの場合は、暗黙のカルテルを結びたいという話だったりするわけですから。