最近、医療保険に対する維新の支出削減の主張が話題です。ただこれは正解がある問題ではありません。「誰かが費用を負担して誰かを援助する」という枠組みの中で、この「誰」はどうあるべきかという議論です。
こういうことを考えたとき、山形浩生さんが話していた「福祉を誰が提供すべきか」という言葉を噛みしめるようにしています。
A SCOPE 資本主義の未来 山形浩生氏との対談
Spotifyにある「A SCOPE 資本主義の未来」というポッドキャストがあります。歴史ポッドキャストで有名なCOTEN代表の深井龍之介氏が、資本主義についてさまざまなゲストと対談するという2022年の番組です。
3年経って多少時代の空気の違いを感じるところもありますが、それでも「資本主義」について突き詰めて考えようというこのポッドキャストは面白い。その最初のゲストが、数々の経済書籍の翻訳で知られる山形浩生氏です。
福祉を誰が提供すべきか?
その中で、山形氏が問うたのが「福祉を誰が提供すべきか?」という根源的な問いです。
家族なのか地域なのか会社なのか、それとも国家なのか、はたまた福祉なんて不用なのか。
これ、けっこう悩みません? 歴史的にいえば、怪我をしたり年老いたり病気の人を助ける広義の福祉は、家族や部族での助け合いから始まったのでしょう。そして部族が拡大した地域内での助けあい(ムラってやつですね)も広がりました。
近代では、人権思想の広がりとともに国家が福祉国家化してサポートするのが当たり前になるとともに、カイシャという大きな部族が福祉を提供するという二重構造があります。日本では、国家だけでなく会社が福祉を提供する構造はよく知られています。例えば、病気や能力不足があって会社は終身雇用の中で、その人の生活を保証する役割を担っているわけです。
では福祉は誰が提供すべきなのでしょうか。あなたはどうあるべきだと思いますか?
集団生活の場としての会社が次第に解体され、利潤追求の集団となっていくなら会社に福祉を求めることは難しくなります。都市化と核家族化は、家族や地域での福祉提供を不可能にしていきました。となると国家がその役割を担うしかないわけですが、育児も介護も医療も全部国が担うとなると、とんでもない費用がかかり、重税をもって対応するしかないこともよく分かるところです。
かといって、全部自己責任で福祉は民間の保険で対応すべきで公的な福祉なんて不要だという、極端なネオリベラリズムも行き過ぎでしょう。ロールズの無知のベールではないですが、生まれたときから障害を負っている子どもに対して、それは自己責任だなんて言うことはできるでしょうか。
自民党は「自助・共助・公助」という表現を使いますが、これは言い換えれば、自己責任・家族の助け合い・国のセーフティネットということです。何でも国を当てにするのはおかしいと考える人がいる一方で、自助を批判する人は常に一定いて、すべて国が面倒を見るべきだ!と主張するわけですが、まぁこれはこれで一つの考え方です。
九条はどう思うのか
では九条はどう考えるのか。ぼくはリバタリアンなので、当然自己責任を筆頭に置きます。何が幸福で、どんな生き方をしたいのかを決めるのは自分自身であるべきで、福祉を受けるにしても提供するにしても、それを決めるのは「偉い人」とか「国」とかではなく、自分の判断であるべきです。
そして家族や地域、会社による福祉提供は、ノスタルジーは感じるものの実質的に破綻しつつあることを受け入れるべきだと思っています。
その上で、国は最低限のセーフティネットを用意することを徹するべきでしょう。自己責任というのは、どんな結果も受け入れろというものではありません。結果には運がつきもので、どんな能力を持っている人でも失敗し、自分の力ではどうにもできなくなる場合だってあるのです。さらに能力を持っているかどうかだって運の要素が大きい。自分の能力がすべて自分に帰すものだと考えるのは傲慢です。
ただし、このセーフティネットは最低限であるべきです。交通事故にあったらお金のあるなしにかかわらず治療して命は救ってほしい。ただし末期ガンで延命治療を行うかどうかは、本人が私財を投げうって行うかどうかを判断するべきでしょう。風邪や打ち身などの治療も、医療保険で安価に提供すべきものだとは思えません。保険は、稀にしか起きないが致命的な事柄に対処するために必要なもので、誰でも年に1回くらいはかかるような出来事に低コストで対処するためのものではないのです。
と、九条は考えますが、あなたは福祉は誰が提供すべきだと思いますか? 家族? 地域? 会社? 国? それとも自己責任がすべてで福祉なんて不要でしょうか。繰り返しますが、これに正解はありません。人はどんな社会で生きるべきかという理想があるだけだと思うのです。