Xでのやり取りをきっかけに、FIREした人とお会いすることが多いのですが、そこには共通した特徴があります。他責思考の人が全然いないということです。他責思考というのは何か問題が起きたときに「これはアイツのせいだ」とか「政府が悪い」「景気が悪いのが原因だ」など、責任を外に求める考え方のことです。では、なぜFIREした人に他責思考の人はいないのでしょうか。
自由には責任が伴う
FIREとは一義的には「経済的に自立して早期リタイアする」という意味ですが、僕は「お金で自由を買うこと」だと思っています。経済的に自立というのは、日々の労働に頼らなくても生きていける資産を持つということで、要はお金がたっぷりあるということ。そして早期リタイアというのは、働いていれば得られたであろう賃金を放棄して自由な時間を買ったということを意味します。
要するに、定年退職までの10数年を1億円ちょっとで買う行為がFIREなわけです*1。
こうやって高い値段で自由を買うわけですから、相当に自由の価値を評価しているはずです。自由なんて不要だという人はそもそもFIREなんてしないで、楽しく働いているはずですから。
ところが、エーリッヒ・フロムが言うように誰もが自由を望むわけではありません。人に言われたとおりに毎日を過ごすほうが楽、自分で考えるよりも権威に服従するほうがいいと考える人が一定います。
それはなぜか。自由には責任が伴うからです。そもそも自由とは、物事を自分で決める権利を持つことです。自分で決めた以上、その結果に対する責任は自分にあります。この自由を「望ましい」「ほしい」と思う人と、「責任を負いたくない」と考える人と両方がいるわけです。
業績不振を社員のせいにする社長
たまに業績不振や不祥事を社員のせいにする社長がいます。「社員の力不足が原因」とか「皆さんにも責任がある」など発言して炎上するのが定期的に起こります。言うまでもなく、社長は会社の中で最も自由を持つポジションです。株主とのやり取りでさえ、敵対的買収に対して数々の防衛策があるように、自らのポジションを守るために社長が取り得る選択肢は多いのです。
自由と責任がセットだと理解している社長なら、社員が力不足なら再教育するなり入れ替えるなり、その自由を(ある程度)社長は持っています。そして業績を上げる責任があるのは経営陣であって、その方針のもとに働く社員には執行の責任はありますが結果に対する責任は存在しません。そのあたりを履き違えている社長が上記のような発言をするのでしょう。
ただ逆にいえば、そのくらい社長が負っている責任は(人によっては)重いということなのでしょう。こうした責任を負っても自由がほしいのか。そう思える人ならFIREに向いていると思います。
究極の自由、FIRE
自由を束縛するものはいろいろありますが、2大巨塔が、「お金」と「仕事」でしょう。この2つに束縛されない状態こそが、自由に近い状態。逆に、お金に不自由していたり、仕事のせいでやりたいこともできないなら、それは自由ではありません。
そう考えると、金銭的に自立して、そのお金で仕事をしないでいい自由を買う=FIREというのは、まさに究極の自由なわけです。そしてその自由には当然責任がセットになります。責任というのは、結果に対して他の誰のせいでもない自分の選択の結果だと受け止めること。これこそが他責思考の対極にあるもので、だからFIREした人に他責思考の人がいないのでしょう。
*1:何円分を買うのかは人によって違いますし、その間の期待賃金額も人によって違うので念のため。60歳定年の会社で年収700万円くらいもらい続けられる人が、45歳でFIREしたら700x15の1億500万円で15年の自由を買ったということになります。