
世の中には数は少ないものの「お金の使い方」を説いた本があって、「こんなことに使うと幸福になれます」と書いてあります。そのうちの一つが、「モノより経験」「モノより思い出」というもの。ただ、これを推し進めて、人生とは「経験と思い出を増やすゲーム」というと、それは違うんじゃないかと思っています。
幸せになるためのお金の使い方
どんな人生を送るのがいいか、考え方は人それぞれですが、不幸な人生よりは幸福な人生のほうがいいという人がほとんどでしょう。ではどうしたら幸福になれるか、しかもお金の力で幸福になるにはどうすればいいか?
これは昔からいろいろな人が科学的に検証していて、幸福感については、年収7万5000ドルでほぼ頭打ちになるというカーネマン研究は有名ですね。そして、モノより経験にお金を使ったほうが幸福になれるというのは『幸せをお金で買う 5つの授業』という本で5つの原則にまとめています。
- 原則1:経験を買う
- 原則2:ご褒美にする
- 原則3:時間を買う
- 原則4:先に支払ってあとで消費する
- 原則5:他人に投資する
この「他人に投資する」というのは要するに寄付が代表例で、だから寄付は幸福につながると言われているわけです。
そして5つの原則の中に「モノを買う」というのが入っていないことにも気づくと思います。さまざまな研究でモノを買うよりも経験を買ったほうが幸福になるとされているのです。
「幸福感」と「人生の満足度」は違う
しかし、この「幸福」という概念はもう少し複雑です。最近の心理学では、
- 幸福感(感情的幸福=affective well-being)
- 人生の満足度(認知的幸福=cognitive well-being)
の2つがあるといわれます。瞬間的な心の動きが幸福感で、人生を振り返っての包括的な評価が人生の満足度です。ユヴァル・ノア・ハラリは『ホモ・デウス』で、幸福感を感じるのを「経験する自己」、人生の満足度を感じるのを「物語る自己」と分けて説明しています。
そして「物語る自己」については「最高に幸福だった時の最高度合い」と「最後が幸福かどうか」が最重視されるという、ピークエンド法則が当てはまると言われるのですが、その詳細は下記のブログにて。
もしも記憶が買えたなら
このように心理学などの研究をベースにすると、いかに少ないコストで効果的に自分の人生を満足度を上げるか?というのが一つのライフハックとして実行できるようになります。そして、この「物語る自己」について人生の満足度を左右するのは過去の経験や思い出なので、極端にいうと「人生とは経験と思い出を増やすゲーム」なんていう人も出てくるわけです。
そして中年になると「人生は経験と思い出を増やすゲーム」という本質に気づく。
これを読んだとき、あれ?うーん?と強烈な違和感を感じました。ぱっと頭に浮かんだのが、フィリップ・K・ディックの名作『トータル・リコール』です。この世界では、「記憶は買うことができる」とされていて、それが中心的なテーマになっています*1。
もし、記憶を買うことができるなら、人生というのは「(お金で)経験と思い出を獲得するゲーム」になってしまうのでしょうか? 記憶というのが脳内のシナプスの重み付けという化学的なプロセスなら、原理的には後付できるものだと考えると、この思考実験は無意味なものだとは思えません。
ものすごく不幸な人生を送ってきた人が、死ぬ最後に全財産をはたいて幸福満載の記憶を買い、過去の不幸の記憶を上書きして消してしまったらどうでしょう。過去を振り返ったとき「自分の人生は最高に満足度の高いものだった」と思いながら死ぬわけですが、果たしてこの人生は素晴らしいものなのでしょうか。
今を生きることの価値
あとから振り返る人生の満足度のほかに、瞬間的な心の動きから得られる幸福感というものがあると書きました。最近注目しているのが、この幸福感のほうです。「ふと空を見上げたらキレイな青空が広がっていて、心地よい風が吹いてきて幸福を感じた」とか、「赤ちゃんと目があったら微笑んでくれて、こちらもほっこりしてしまった」とか、そういう感じでしょうか。
これをすごく意識したのはニーチェの「超人」思想からです。ニーチェは、世界のすべてが決定論的で自由意志なんてものはなく同じ世界が永遠とループする「永劫回帰」を想像し、その中に果たして人生の意味というものはあるのか? と問いかけました。ひたすら岩を押して山の上まで運び、運び終えると岩は下に落ち、また運ぶというカミュの『シーシュポスの神話』のような世界です。
こうした世界で、今の間際に「ああいい人生だった」と思うことにどれだけの意味があるのでしょう。それは本人がどうしようともう決まっているもの(永劫回帰的な)ものかもしれないし、実際には経験していないけど記憶として受け付けたもの(トータル・リコール的な)ものなのかもしれません。
旅行に行ってひたすら映える写真を撮り、まるで写真を撮るのが目的のような旅が流行っているようです。もし「経験と思い出」というのが旅先で撮った写真のようなものならば、その不毛さはイメージできるのではないかと思います。有名な観光スポットの前でアリバイ的に自分が写った写真を撮るのがメインの旅行なら、生成AIで自分が写った観光地の写真を作るのと、何が違うのでしょうか。
さて、そういう無意味な永劫回帰な世界の中でも、「今、この瞬間を力強く肯定して生きよう!」という意思を持つことが、世界のすべては無意味だというニヒリズムに陥らないための唯一の方法だとニーチェは言いました。そしてこうしたことができる人は「超人」と呼びました。
人生とは「瞬間瞬間の幸せを噛み締めていくゲーム」
と、このニーチェの超人思想を思い出して、「人生とは経験と思い出を増やすゲーム」という言葉に感じた強烈な違和感が何だったのか腑に落ちたのです。過ぎ去った過去を評価するのではなく、現在この瞬間を楽しもうという考え方のほうが、僕にはしっくり来ました。
そしてこれは禅にも通づるところがあります。禅では過去はすでに過ぎ去った記憶であり、未来はまだ来ていない不確かなものです。私たちが実際に存在し、経験できるのは「今、この瞬間」だけであると考えます。ニーチェのような実存主義に近いですね。
そして禅の修行は、思考や雑念から離れ、意識を「今、ここ」の身体感覚や呼吸に集中させることを目指します。これにより、過去への後悔や未来への不安といった苦しみから解放され、ありのままの自分を受け入れる「平常心」を得ようとします。
何も考えずひたすら自分の呼吸だけに集中し、頭を空っぽにする。これが現在を生きることに繋がります。一時期毎週禅に通っていたことがあったのですが、案外自分が頭を空っぽにできる人間だということがわかって面白かったものです*2
というわけで、人生とは「経験と思い出を増やすゲーム」ではなく、「瞬間瞬間の幸せを噛み締めていくゲーム」なんじゃないかというのが、最近の僕の実感です。
