FIer: 投資でセミリタイアする九条日記

九条です。資産からの不労所得で経済的独立を手に入れ、自由な生き方を実現するセミリタイア、FIerを実現しました。米国株、優待クロス、クリプト、太陽光、オプションなどなどを行うインデックス投資家で、リバタリアン。ロジックとエビデンスを大事に、確率と不確実性を愛しています。

「納税の義務」の不思議と国家観

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日本国憲法には、国民の三大義務として「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」があります。ところがこの「納税の義務」というのも、意外と日本独自に近いもので、世界的には珍しいものらしいのです。

納税は義務か権利か

日本国憲法には、次のように納税が義務だと書かれています。

第三十条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

ところが、納税に関しては「義務」ではあるものの「権利」の規定がありません。教育の義務が、教育を受ける権利とセットになっていて、勤労の義務も第27条で権利がセットになっています。納税だけが単なる義務で権利がないのです。

 

世界的には、納税の権利の文書化が進んでいて、「納税者権利憲章」という形で納税者の権利を保障しようとしています。OECD49カ国のうち、36カ国で作成されていますが、日本では一部での動きに留まっているようです。日本では、「税金を取る」法律だけがあり、強引な税務調査や一方的に納税を強要する「推計課税」などがあり、いわば税務署のいうがままとなっているのが現状です。

 

納税については、義務とわざわざ憲法でうたっている国は珍しいようです。英国からの重税に反発して独立を勝ち取った米国を筆頭として、税金というのは仕方なく支払うものであり、当然のように納付するという考え方自体が珍しいのでしょう。

 

以前、「勤労の義務」が憲法に存在するのは、日本と旧ソ連、そして北朝鮮だけだという記事を書きました。そもそも多くの国では憲法というのは行政を縛るためのものであり、国民に何かを指示するものではありません。その憲法の中に、三大義務が入っていること自体がおかしな話でもあります。

 

GHQが作ったもともとの日本国憲法草案には、そもそも納税の義務はなかったそうです。米国人が義務なんて入れ込むはずがありませんね。勤労の義務と同じく、その後の衆議院での議論で、納税の義務が入れ込まれたそうです。

www.citizens-i.org

節税は悪か?

なんで義務か権利かなんて考えるかといえば、日本では節税行為自体が悪であるような話がしょっちゅうあるからです。以前年配の方と話している時にふるさと納税の話になったりのですが、「これお得でいいですよね」と言ったら、「そういう納めるべき税を納めない仕組みはどうかと思う。私は使わない」と返されました。

 

ほんの雑談だったので、それ以上つっこみませんでしたが、どうやら日本人の中には税金は少しでも多く払うべきもので、減らそうという考え方自体が悪徳であるという考え方を持つ人がけっこういるようです。

 

日本では税を「納める」といいます。これは、江戸時代の農民が年貢を「納める」という考え方からつながっている表現です。英語では「Pay」であり「支払う」です。逆に、「税金を支払う」というと違和感を持つ人が多そうです。支払うという言葉には、何かの対価として金銭を差し出すというニュアンスが感じられるのに対し、納めるという言葉には、当然あるべきところへ渡すというニュアンスが感じられます。

 

江戸時代であれば、税金というのは社会的サービスの対価として支払うものではなく、当然差し出さなければいけないもので、そのニュアンスが今も「納税」という言葉に残っているようにも思います。

国家とは何か

これは日本人の国家観にも関連しているのではないかと最近感じます。戦中のノンフィクションなどを読んでいると、日本国民は日本の国体のために存在しているもので、天皇陛下に身も心も捧げ、日本のために生きなくてはいけないと、心から考えている人が、特に上層部にはたくさんいたようです。

 

総力戦のさなかでは、こうしたムードを醸成しなくて国民一丸となって戦えない。それは分からなくもありません。でも、こうした「国のために国民が存在している」というイメージが、強く強く形作られてしまったのではないかとも思うわけです。

 

国家の起源は諸説あります。ホッブスの契約論では、「万人の万人に対する闘争」を避けるために、互いに契約を結び集団となって国家となったと考えられます。ロックの契約論では、闘争が出発ではなく私有財産を守るために互いに契約を結び、国家となったという考え方。さらにルソーの社会契約論では、財産だけでなく各人が自由で独立した存在であるために互いに契約を結んだという考え方を取ります。ここで初めて一部の有力者が支配する国家ではなく、国民主権という概念が出てきます。

 

しかし実際の国家の成り立ちを見ると、もっと泥臭いものだったらしいという話もあります。『国家とはなにか』には、国家はみかじめ料を取るヤクザの集団のようなものだったという考え方が示されています。

国家のために生きるから、国民のための国家へ

国民は国体のために存在している——。これは明らかに歪んだ考え方だと、ぼくは思います。太平洋戦争の時期に、「お国のために死んでこい」という理屈を正当化するためにすり込まれたものじゃないか、とか思ったたり。

 

本来は、ルソー、さらにはカントが考える国家観のように、国民が平和で豊かに暮らすために国家があるのであって、その逆ではないと思うのです。

 

振り返って、税はどうでしょうか。これは国家の為に差し出すものではなくて、警察や防衛、司法など最低限国家が担わなければならない役務の対価として支払うものでしょう。さらに、秩序ある社会を実現するために、貧困をなくすために富の移転が行われるためのものでしょう。また、望ましい社会を実現するための方向付けとして、法律で禁止する代わりに税金を課すことで、その行為を減らしていく。そうした手段の1つであると思います。

 

働いた父親が、給料から家にお金を入れるとき、「たくさん取られてイヤだなぁ」と思うでしょうか。思うかもしれませんが、それは結局家族のために使われるものです。必要以上に入れる必要はありませんが、その使い道については家族全員が納得するものである必要があるでしょう。

 

だから、国民は税金の使い方を見張らなければいけないし、その税金の使い方が本当に国民にとって良いことなのかを、長いスパンで見なければいけないはずです。でも、ほとんどの国民にとっては、増税する政府は悪い政府で、給付金をくれる政府は良い政府みたいに見ています。自分たちの代表としての政府ではなく、何やら遠いところにある「お上」のような感覚。それが多くの日本人にとっての「国」なのかもしれません。

 

というわけで、税を取って使う政府が真に国民の代表なのであれば、国民は定められたルールの中で必要な分だけ税金を払うのが筋だし、必要な人ではなく誰彼かまわず税金をばらまく政府は、ポピュリスト的な人気取りをやっている悪い政府だと思うべきでしょう。

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